神に誓いし約束

 源内さんに紹介された秋田藩士・小田野武助さんに解体新書の挿絵を描いてもらうことが決まって数ヶ月。製本に向けて作業は大詰めを迎えていた。


 何しろ本文は既に完成しており、後はそれに見合う絵が描き上がればいいということで、武助さんは杉田邸で半ば拉致監禁のような状態でヒイヒイ言いながら絵を仕上げたらしい。さながら締切前に追い込みをかけられた漫画家のようである。


 そして、もう間もなく刊行となる初夏のある日、前野さんが珍しく我が家を訪れていた。


「前野殿の方からお越しとは珍しいですな」

「いやいや、ちとご相談がありまして」

「何でしょうか?」

「実は……解体新書の訳者から、私の名を外していただけぬかと」

「まだ訳に納得されておらぬのですか?」


 その言葉を聞いて、俺は意外とは思わなかった。


 史実でも、解体新書の訳者に前野さんの名前は載らなかった。そのせいで刊行当時は杉田さんや中川さんたちだけが賞賛され、前野さんは藩医としての仕事もせず和訳に携わりながら、訳者の末席にも名前が載らぬ程度の仕事しかしていなかったのかと周囲から非難を浴びたらしい。


 世間一般にその功績が知られるのは、後年杉田さんが著した「蘭東事始」、そして明治に入って福沢諭吉などの有志たちがそれを再編集した「蘭学事始」の刊行まで待たねばならず、生前は一部の知識人階級に偉業が知られるのみで、肩身の狭い思いをしていたようだ。そんな辛い思いをしても、彼の訳文にかける譲れない矜持があったということだろう。


 ただ……この世界においてはその懸念を俺という存在が打ち消したつもりだった。たしかに渋ってはいたが、俺が大丈夫ですよと太鼓判を押したことで、彼も納得していたかのように思えたのだが……


「正直に申し上げると、訳に納得できていないところはあります。無論、これが世のために役立つものであることも承知している。だからこそ藤枝殿が刊行すべきだと仰ったのであろうと」

「そうですね。これで完璧だと言うつもりはありません」

「そのことはよいのです。ただ、それであれば訳者が誰であるかはさして重要ではございますまい」

「何を仰る。これだけの偉業、自身が成したと誇るべきでしょう」

「私には出来ぬのです」




 どういうことなのかと問うと、前野さんは始めて蘭書に触れた頃のことを話し始めてくれた。


「私が蘭書に始めて触れたときのことは、以前にお話ししましたな」

「知人から蘭書の一節を見せられ、全く違う国の言葉、意味どころか読み方も分からぬものであったが、それを用いてオランダ人が会話や文章を成り立たせているのであれば、同じ人間なのだから理解出来ないことはないだろうとその解読を志した。でしたかな」


 その後に昆陽先生に師事し、俺と共に蘭語の習得に励んだ後、長崎に留学したと言う部分は俺も直接関わったので知っているわけだが、その留学中にとある願掛けをしたのだそうだ。


「私は、どうかこの学問の習得が成就するようお力添え下さいませ。と太宰府にて願掛けを行ったのです」


 太宰府と言えば、学問の神様菅原道真公を祀る太宰府天満宮のことだろう。学問のことを祈願するのであれば最適の神社だね。


「私が蘭学に志を立てたのはただ学問のためで、それによって名を売るとか、利益を得ようとしているわけではない。そう願ったのです」

「故に名前を載せれば誓いに反すると」

「左様」


 ……そういう事情があったのか。単に訳文の完成度に納得出来なかったわけではなく、己の名を売ることを良しとしなかったというわけか。


「この訳文が世に出ることで、これまで以上に蘭学を志す若者が現われましょう。私の名前が載ろうが載るまいが、それは変わらないはず。私の名は伏せていただきたいと思うのです」

「事情は理解いたしました。なればこそ、私は前野さんの名前は載せるべきだと考えます」

「何故に?」

「真っ当な努力をした者が報われぬ世であらぬように。です」


 未来と比べて、この時代は信心深い人が非常に多い。それにかこつけて暴利を貪る生臭坊主みたいなのも少なくないが、信仰心が篤いというのは悪いことではない。


 しかし、何かを願掛けしたとしても、それを成すことが叶うのは本人の努力があってこそ。神仏の加護を否定こそしないが、努力をしない者に加護が与えられるかというと絶対にそれは無いと思う。


 だからこそ、偉業を成した者はその名を残すべきだし、それを見て後に続く者が現われるためにも、賞賛を受けて然るべきだ。功名心とか営利とかいう俗物的な話になってしまうが、多くの人間は自身に何らかの益があればこそ努力をするものだし、苦行を乗り越えるモチベーションとなる。前野さんみたいに功名のためではないと誓って貫ける者の方が珍しいのだ。


「この先蘭学を広めていくのであれば、その端緒となった前野殿の業績はしかと残すべきです」

「しかし……私は神様に誓ってしまいました」

「この程度のことで天罰を下すほど、天神様は狭量ではございますまい」


 道真公が神として祀られたのは、その才を妬まれ左遷されて非業の死を遂げた後に、都で起こった数々の凶事が公の祟りのせいだと悪霊扱いされたからだと記憶している。国政に従事して天下国家のためにと頑張っていたのに、失脚させられた挙句に諸々の凶事の原因にされたわけで、道真公にしてみたら神になったのが果たして本意だったのかと思うわけですよ。


 しかし神様になったということは祈願に来る人がいるわけで、全く知らない未来の人間たちに学業成就とか願をかけられ、しかも望んでもいない誓いまで立てられている。


 なまじ祟りが公の怨念によるものと思われているから、前野さんのような信心深い人は頑なにそれを守ろうとするのだろうが、俺が道真公だったら「望んで神になったわけじゃないし、勝手に願掛けして勝手に誓いを立てられても知らんがな。出来るか出来ないかはオマエらの努力次第じゃね?」みたいな感想を抱くよ。


 こうやって言うと俺が無神論者みたいに聞こえるかもしれないが、神社やお寺に行くのは自分の気持ちや意思を固めるためのある種のきっかけ作りとしては役に立っていると思う。ただ、何かを叶えるために何かを犠牲にするトレードオフみたいな考え方をする必要は無いとも思っている。


「その才をもって天下万民の為になる功績を残したのです。それに対する賞賛を受けたとして、どうして天罰が下るようなことがありましょうや」


 解体新書の刊行は、救民、子孫繁栄、国家安泰に繋がる業績だ。それだけ立派なことを成した人物が、誓いを立てたからと生前報われぬ人生を送るなんて、それが本当に正しいことなのだろうか。神様や仏様はそこんところどう思うのかね?


「問題ありません。これで天罰が下るというのなら、無理強いした私に下るでしょうが、道真公ならよくやったと褒めてくださいますよ」

「本当に大丈夫でございましょうか」

「むしろ居てもらわねば困ります。後々訳文の誤りなどが見つかったとき、杉田さんだけでは対応出来ませんから」

「……言われてみれば」


 だいたい、吉雄殿に書いてもらった序文の中で、「前野さんがいなかったらこの訳本は完成していないだろう」と名前入りで賞されているのだから今更です。






 こうして安永三年七月、三年数ヶ月の長きにわたる苦労の末、タブラエ・アナトミカの日本語訳『解体新書』はついに出版されることとなった。

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