西洋絵画の技法

「絵か……たしかにな」


 前野さんから平賀源内の聞きたくなかった性癖を聞かされ、恐る恐る会話の輪に戻ると、話は解体新書に載せる絵をどうするかという議論が続いていた。


「日本の絵にも良いところはあるが、ここに載せるにはやはり西洋の画法を取り入れた方が良さそうだな」

「しかし……そのようなものを学んでいる者が……」

「いるよ」


 西洋画を描ける者がいるのかという杉田さんの問いに、あっさりと肯定する源内さん。なんか、某検事モノのドラマに出てくるバーのマスターみたいに感じたのは気のせいではなかろう。


「明日、そいつをここに連れてくる。その上で腕を見定めてやってくれ。ただ、俺の知る限りアイツ以上の西洋画を描ける者はいないと思うがね」

「では、そこについては平賀殿に一任いたそう」




<翌日>


「出羽秋田藩士、小田野武助にございます」


 約束通り、源内さんが西洋画を描けるという人物を連れてきた。が、秋田の人? 西洋とは縁もゆかりもなさそうなんだが……


「外記さん、疑ってるね」

「いや、そういうわけではなく、てっきり源内殿が描かれるのかと」


 昨日源内さんが帰ってから、残った面々で本当に西洋画を描ける者がいるのかという話になり、そこで杉田さんが仮説として立てたのが、源内さん自身が描くのではという推論だった。事実彼は、長崎留学中に諸々の学問のほか、絵画の技法なども学んでいたとかで、西洋画っぽい物も描いているという。


 ただ、杉田さんに言わせると、よくて絵の好きな素人レベルらしく、もし西洋画を描けるのが俺だ! となったら、全力でお断りする予定だったのだ。


「なんでえなんでえ、オイラの絵じゃ不満か?」

「不満も不満、それ以外に言葉が見つからんわ」

「……って言われると思ったから武助を呼んだんだよ。この男なら間違いは無い」

「左様ですか。ちなみに小田野殿はどこで西洋画を?」

「武助で結構にございます。某が西洋画を描くようになったのは、源内先生のご指導によるものです」




 武助さんは令和の世でも武家屋敷が残り、「みちのくの小京都」と呼ばれている秋田・角館の出身。幼少より絵を描くことに長け、やがて角館城代の佐竹義躬公や藩主佐竹右京大夫義敦公の知遇を受けるようになったという。


 その彼が西洋画に出会ったのは昨年の夏。領内にある阿仁鉱山の技術指導のため源内さんが秋田へ出向いたことに始まる。


 阿仁鉱山は銅の産出量で日本一を誇り、長崎貿易で使われる銅の半分以上を占めていた。しかし、行人坂の大火で江戸屋敷が焼失し、領地は領地で宝暦の頃からの不作が続いて藩の財政が火の車となる中、鉱山経営に回す資金も人も足りず、生産量が大きく落ち込んでしまったため、その改善を目的として招聘されたのだ。


 源内さんは産出された銅の成分を調べ、その中に大量の銀が含まれていることを知った。そこで銅の精錬法を聞くと、その方法では銀成分を抽出するのには不十分だったため、石見銀山や大坂などで使われていた方法を伝授し、秋田藩の財政は少し改善したらしい。言い換えればそれまでは価値の高い銀が混じった銅を、銅としての価格でしか取引していなかったのだから、収入が増えたというのは当然のことだろう。


 で、肝心の西洋画についてだが、源内さんが逗留していた宿にあった屏風絵が見事な出来だったため、それを描いた武助さんと会ったというのがファーストコンタクト。それから狩野派などを学んでいた武助さんと藩主義敦公に、西洋技法を伝授し始めたのだそうだ。


 その後、鉱山指導の役目を終えた源内さんは冬が本格化する前に江戸に戻ったわけだが、それから遅れること二ヶ月ほど後の年の瀬になった頃、武助さんは「銅山方産物吟味役」という職名で江戸へ出向を命じられた。


 役職から考えると産出した銅に関わる役目のようだが、実は実態が無い。要は源内さんとの繋がりを残しておきたい義敦公が武助さんを江戸に送り込むために役職を与えたというのが真相だ。


 そんなわけだから武助さんは藩邸ではなく、源内さんの家に身を置き、日夜西洋画の技術向上に勤しんでいるのだ。


 なんか最近、俺の身近で似たような理由で役職を与えられた事例があったような気がするが……




「では早速で恐縮だが、絵の腕前を見せたいただきたく」

「そう仰ると思って、手慰みに描いたものをいくつかお持ちしております」


 武助さんが手際よく包みの中から以前描いたという絵を何枚か見せてくると、一同食い入るようにそれを眺めている。


 ……うん、上手いわ。


「前野殿、これなら……」

「うむ。異存ござらぬ」


 杉田さんと前野さんも唸っている。絵心の無い俺でも、この人の絵なら原書に負けないものが出来るのでは無いかと感じられる仕上がりになっているもんな。


「しかし、日本の絵と西洋の絵でこうも違うものなんですね。一体何が違うのでしょうか」

「違いが知りたいかい?」


 みんなで武助さんの絵に感心している中、中川さんがそんな疑問を口にすると、源内さんが待ってましたとばかりに笑みを浮かべた。その様子を見るに、言いたくてウズウズしていたようだ。


「平賀殿は違いが分かると?」

「おいおい良沢さん、武助に教えたのは俺だぜ。分からないわけがないだろ」

「して、その違いとは」

「ふふふ、口で言うのは簡単だが、みんなにも体感してもらった方が分かりやすいだろ」


 ニマニマとしながら源内さんが筆と紙を用意して、俺たちに「鏡餅を真上から見た絵を描いてみてくれ」と課題を与えてきた。


 鏡餅を真上から……ねえ……





「玄白さん、それじゃあ丸を二つ描いただけだぜ」

「むむっ……そう言われても」

「良沢さんも淳庵も、みんなして丸しか描いてねえじゃねえの」

「そんなこと言われたって……」

「上から見た鏡餅なんてこれ以上どう描けと言うのだ」


 最初は全員、「何だ、餅の画を描けばいいのか?」くらいの気持ちであったが、どうも苦戦しているようだ。たしかに誰の描いた絵を見ても、ただ単に二重丸が描かれているだけ。到底鏡餅には見えない。


 この時代の絵というのは、平面で描くスタイルであり、どちらかというと観念的な描写が多く、西洋画のように立体を立体に見えるように描いている作品というものが無い。どちらが優れているかという話ではなく、これは文化の違いとしか言いようがないだろう。


 だからこそ、平面的で輪郭線で表現する従来の画法では、真上から見た鏡餅をそれらしく描くことが出来ない。


 ……って偉そうに芸術評論家みたいなことを言っているが、全部未来知識の受け売りだ。俺自身、図工も美術も成績は5段階評価で良くて3だった。それもどちらかというと工作みたいなジャンルの成績でカバーしたものであり、絵心があるかと言えば、無いとキッパリ言える自信がある。


「さてさて、外記さんはどうだい?」

「拙い絵ですが……」

「……餅ですね」

「餅だな」

「餅に見えますね」


 俺も二重丸を書いただけだが、違うところがあるとすれば、片側の一部を少し黒く描いたこと。つまり、影を描くことで立体的に見えるようにしたのだ。


 正直に言うと、みんな餅の絵を描いていることを知っているからそう見えるだけで、ノーヒントだったら一発で分かるとは思えないくらいの酷い出来だが、それでも単なる二重丸と比べれば立体感は出ている。


「なんでえ……つまらねえな。知ってて黙ってたのかい」

「そういうわけではござらぬが、どこかでそのような話を聞いた記憶がありまして」


 ……未来の知識だけど、間違ったことは言ってないぞ。


「正解だ。陰影を付けて物を立体的に描くのが西洋の技法だぜ」

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