ダメよ〜、ダメダメ
「本年もよろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いいたします」
年が明けて安永三(1774)年となりしばらくした頃、天真楼という杉田さんの診療所兼私塾に顔を出した俺は、読み分け会に参加する面々と年始の挨拶を交わしていた。
「しかし……来客が多いみたいですね」
「それだけ解体新書への期待が高いと言うことでしょう」
昨年の始めに刊行した解体約図の反響は大きく、天真楼には引きも切らさず来客が続いたほか、読み分け会に参加したいという学者も次々に現われ始め、今ではかなりの大所帯になっていた。
さらに言えば、出版までの期限を決めた効果もあったのか、この一年間で内容の解読はほぼ完成した。このまま刊行しても大過ないくらいにの完成度にはなっていると思う。
「実際、吉雄殿からもこれでもかというくらいの賛辞に溢れた推薦文も来てますし」
あれ以来、長崎の通詞たちも和訳に取り組んでいるようで、お互いの知識を共有すべく、吉雄殿とは何度となく書簡でやりとりしていたが、やはり直接会って話をするのが一番良いということで、通常、カピタンの江戸参府に随行する大通詞は毎年面子が変わるところ、志願の上で二年連続の江戸来訪となった。
そのときに当時の進捗状況を見せつつ、可能であれば本の序文を書いてくれないかと頼んだところ快諾してくれて、それが年末に届いていたのだ。
タブラエ・アナトミカに関する和訳力は江戸蘭学チーム>長崎通詞なんだけど、世間一般ではやはりオランダ語と言えば長崎通詞が一番知っているだろうという認識なので、彼の推薦文はこの本の価値を大いに高めてくれる。当の吉雄殿は、「私は半分も読めていないのに、こんな偉そうなこと書いていいのだろうか……」みたいな感じだったけどね。
「藤枝殿にそう言ってもらえるのだから間違いは無いと思いますが……」
「前野殿はまだ何か気になることが?」
「絵でござる」
そう言うと、前野さんは既に刊行した解体約図を畳の上に広げた。
「絵師の腕前に問題は無いのだが、何と言いますか、原書の絵と比べると今ひとつ何かが足りないような気がしてならんのです」
約図では骨格や内蔵の図解を載せており、それは杉田さんの知り合いである熊谷氏という日本画家の手によるもの。俺は絵心ない未来人だから良く書けているとは思うが、やはり西洋の絵とはテイストが違う。前野さんとしてはそのあたりも原書に近づけたいと考えているのだろう。それだけ和訳文の解読に自信があるという証拠だ。
「何とかならぬものでしょうか」
「うーん……さすがに絵のことまでは」
「そうでござるか……何か良い案は無いものか」
前野さんや中川さんとどうしたものかと思案していると、塾生の一人が来客を杉田さんに告げた。
「どなたであるか」
「平賀殿にございます」
「おお、江戸に戻られておったか」
来客者の名を聞き、杉田さんが玄関まで迎えに行くのを見て、俺はどちら様かと前野さんに聞くと、来客者が平賀源内という方だと教えてくれた。
「平賀殿?」
「そう言えば藤枝殿はお会いになったことがございませんでしたな」
平賀源内? あー、ダメよ〜、ダメダメ……じゃなくて、モノホンのエレキテルの人だな。
名前は知っている。何故かと言えば有名人だからね。
讃岐高松藩士の子として生まれた彼は、幼少の頃から色々な学問に触れ、長じてからも大坂、京都、江戸、そして長崎とあちこちで様々な学問を修めていた。
そしてその学を生かし、鉱山開発や薬草など各地の産物の展示会の開催、それを基にした解説書の刊行などで名を挙げた博物学者とでも言うべき人だ。
もっとも……それが故に藩士の身分では身動きが取りづらいと考えたのか職を辞してしまい、今は他家への仕官が叶わぬ奉公構となってしまったんだよね。
「お歴々、ご無沙汰してるね」
「源内殿もお元気そうで」
「淳庵、話は聞いてるぜ。和訳がかなり進んだらしいじゃねえの」
そんな人だから交友関係は多岐に渡る。特に中川さんは日本で初めての寒暖計、つまり温度計の製作だったり、
火浣布ってのは
「こちらの藤枝殿に色々とご教示いただいたのです」
「おお……そちらさんが噂の麒麟児さんかい」
「平賀殿、四千石の御当主でござる。口を慎みなされ」
「へいへい、良沢さんは相変わらずお堅いことで」
……コミュニケーションお化けというやつだろうか、非常にフランクな感じだ。
礼儀とか細かいことに拘る人ではないんだろうな。杉田さんはこういう相手でも馬を合わせることが出来るからいいけど、前野さんとは決定的に合わなさそう。なんとなく初見での印象だけど。
「お初にお目にかかる、平賀源内と申す」
「旗本寄合席、藤枝外記にござる」
「解体約図を刊行したまでは知っていたが、ちょいと野暮用で江戸を離れているうちに随分と大所帯になったもんだね」
「皆様のおかげで和訳も順調に進んでおります」
「その読み分け会を先導するのが貴殿のような若い子とはねぇ……へぇ……」
……なんだろう。少しトゲのある物言いに感じるのは気のせいだろうか。
言われ方は様々だけど、「こんな若輩者が!?」という雰囲気で侮られることは今までに何度もあった。それこそ中川さんや杉田さんと最初に会ったときからそうだったし。
ただ、少し雰囲気が違う。何がどう違うのかというと説明が難しいが、今まで俺を侮ってきた奴らの嘲りとは何かが違うような気はする。
「学問を修めるに年はあまり関係ないのでは」
「いや失敬。若いと侮ったわけじゃねえ。むしろ可愛らしい顔して中々やるじゃねえかと感心してんだ」
……その違和感を払拭すべく、侮ることなかれと反論してみると、源内さんはそういうわけじゃないと言う。逆に大したもんだと褒められているようだが、どうにも視線が怖い。何かこう……全身を品定めされているような感覚だ。
「藤枝殿、ちょっと……」
俺の様子がおかしいと気づいたのか、前野さんが少し話があると言って座を外すよう促してきたので、それに従い部屋を出ると、とんでもないことを聞かされた。
「実はあの男、男色家なのだ」
「……そうなのですか?」
そういうことか。何か向けてくる視線がおかしいと思ったんだが、「やらないか」ということか。どういうことか分からない人は知らない方が幸せなこともある。
先程は源内さんを博物学者と言ったが、実はそれ以外の分野でも才能を発揮しており、戯作者、未来で言うところの通俗小説や大衆小説の作家として風来山人、浄瑠璃の作家としては福内鬼外という名前、いわゆるペンネームを用いて数々のヒット作を生み出している売れっ子作家でもある。
その繋がりなのかは分からないが、男色の彼は歌舞伎役者を贔屓にして愛しているようで、中でも二代目瀬川菊之丞とは懇ろな関係なのだとか。そちら方面にはとんと疎いもので、前野さんに実はね……と教えてもらうまで知らなかった。
「もしかして狙われてます?」
「藤枝殿は整ったお顔をされておりますからな」
「怖いことを仰らないでください」
「まあ、そういう気は無いと分かれば無理強いはしないでしょうが」
……ってことは、それが分かるまでは迫られる可能性があるってことか?
ダメよ~ダメダメ。俺は至って正常な性癖なんですから。
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