【他者視点】日本紀行(カール・ペーター・トゥーンベリ)

 1775年7月21日、我々はバタヴィアを出港した。


 目的地は日本の長崎。今回私は貿易に向かう商隊の医務官として随行し、日本に着いてからは、使節の代表であるフェイト氏が将軍に謁見するため、その宮城がある江戸という町へ向かう際の侍医を務めることとなっている。


 ……というのは表向きの役目であり、私にはそのほかに、かの地で出来る限りの種子や草花、灌木や樹木を収集し、アムステルダムの植物園やオランダにいる学者たちにそれを持ち帰るという仕事がある。



(中略)



 8月13日の午後になり、ようやく日本の陸地を望むことが出来、その夜には港の入口に碇を下ろした。


 長崎の港は周囲の高い山に守られるように位置し、おそらくはその山に見張所のようなものがあったのであろうか、我々の船影を見るや、日本の役人たちがやって来て、我々が持つ書籍や武具を全て引き渡すこととなった。


 とりわけ聖書や祈祷書などのキリスト教に関する文献は箱に収められ、厳重な封印をもってこれを保管された。日本ではキリスト教の布教は禁止されており、特にこれらが流出することを恐れての処置であろうと思われる。



(中略)



 9月、長崎の役所の責任者が交代した。責任者は奉行といい、長崎の町の行政・司法に加え、貿易の監督、外交対応など多岐に渡る事務を所管しており、ヨーロッパで言うなれば、長崎という街の執政官とでも言うべきであろうか。


 その定員は2名で、1人は長崎、もう1人は江戸にあり、1年周期で任地を交代する。今回やって来たのは柘植トゥーゲ長門守正寔という人物で、今年の初めに現職に就いたということで長崎は初めてだという。


 そして、それに随行してきた者の中に、藤枝外記フジーダ・ゲーキという男がいた。


 彼は江戸の将軍に仕える直属の騎士の一人なのだそうだが、オランダ語の書物を日本の言葉に訳して刊行した学者でもある。


 他国の言語を訳しただけで何故驚くのかとお思いかもしれんが、この国でオランダ語を理解出来るのは、4,50人の通訳しかいないのだ。


 それはオランダ人に日本語を理解させないため、そして日本人にヨーロッパの情報を伝えないようにする、日本政府の情報統制策によるものである。


 当然ながらオランダ語を解する数少ない通訳たちは、我々の対応のため全て長崎にいる。外記が住む江戸には、我々と共に向かう時以外に常在する者は1人もいない。


 しかも、通訳たちも会話は十分な技量を持つが、文章を読むということに関しては覚束ないという環境にあって、彼は仲間たちと独力でオランダ語を日本語に訳したのである。


 自国語に訳した辞書も文法書も無く、見知らぬ他国の言語を訳すことが出来るかと問われれば、難しいと言わざるを得ない。それを彼は成したのだ。そして、江戸にあってそれだけの知識を得られたのであれば、長崎に行けばより多くのことを学べるだろうと、この国の将軍の嗣子の命によって留学に来たらしい。


 ……ということを何故私が知っているかといえば、外記本人に直接聞いたからだ。


 驚くことに、彼は翻訳だけではなく会話も習得していた。残念ながら師について教わったわけではないので、発音こそ通訳に比べて正確性を欠くが、我らと十分に意思疎通を図れた。


 商館長のフェイト氏は、以前江戸へ赴いた際に彼と面識があり、そのことを話には聞いていたが、実際に対面して言葉を交わせば、なるほどフェイト氏の言っていたことが良く分かった。


 そこで、私は自ら彼の師になることを申し出、様々な学を授けたのだが、彼は進んで新しい知識を学び取っていった。


 故郷で教鞭をとっていた身である私にとっても、教えたことを生徒が次々と吸収してゆく姿を見るのはとても楽しかった。



(中略)



 フェイト氏に同行して江戸へ向かう道中でのことだ。藤枝外記という青年が、間違いなくこの日本という国の中で最も先進的で開明的な思考の持ち主だと確信するに至る出来事があった。


 江戸への道中、私はこの国に育つ草木を観察、収集しながら旅を続けていた。


 故に時には一行の足を止めてしまうことも多々あり、それが何度も続くとさすがに同行する日本の役人たちが不審を抱き始めたようで、私に何をしているのかと詰問してきたが、それを執り成したのが外記であった。


 彼は将軍直属の騎士の中でも位の高い家、しかも若年ながら既に当主の座にいるということで、彼が言うのならばと役人たちも退かざるを得ず、私は植物観察を続けることが出来た。


 そして、助けてくれた気安さから、故郷のことなどを外記に話しているうちに、彼は私がオランダ人ではないことに気付いた。


 これには私も驚いた。まだまだ全ては理解していないだろうと油断した私が悪いのだが、彼はオランダのことのみならず、他のヨーロッパの国についても少なからず知識を有していた。ただ書に記された文章のみを師としてだ。


 これまでもオランダ人と称して、他国の者が日本へと数多く渡ったが、詐称が気付かれたことなど聞いたことがない。それを彼は少しの会話で気付いたのだ。


 国外退去の文字が頭をよぎった。だが、彼は大恩ある師にそのようなことは出来ないと言い、機密情報だけは持ち出さないことを約束して、私の仕事を黙認してくれたのだった。



(中略)



 江戸に着くとすぐに、将軍の侍医である桂川甫周ホジュウとこの国の大公付きの医師である中川淳庵スンナンという二人の訪問を受けた。彼らは外記の手紙で私の話を事前に聞いており、到着を今か今かと待ち望んでいたらしい。


 そして流暢ではないものの、やはりオランダ語を話すことが出来たことに驚き、それを外記と共に導いたとされる前野良沢マーノ・ラヨタクという学者にも会いたかったのだが、残念ながら彼は私に会えば学問への探究心が抑えられなくなり、主君や家族に迷惑をかけてしまうだろうと、面会を固辞された。


 非常に残念ではあったが、その分、私は持ちうる知識を淳庵と甫周の2人に与えることにした。


 私の忠実な弟子となった2人は、ほぼ毎日欠かさずに私の元へやって来ては熱心に話を聞いていたので、日本の医者が知り得ぬ知識を多く学ぶことになった。これにより多くの病の兆候を知り、西洋で私たちが扱う方法と同様の処置が施せるようになったかと思う。




 そんなある日、外記が私の元を訪れ、とある姫君の診察を頼むと言ってきた。聞けば、西洋で言うパーティーのような場で急に倒れたそうだが、実際は毒を盛られたとのことだ。


 本来、その姫君を診る医者は限られた者だけのようだが、外記がその姫の父に掛け合って、特別に私に診察の許可が下りたのだとか。


 しかし、その屋敷に行ってみれば、病人を直接診ることは叶わず、ただ隣室にあって口頭による診療のみだと将軍の重臣に言われたというではないか。


 そんな方法で適切な処置など出来るわけがないと抗議すると、外記が役人と交渉し、彼が姫君の診察を行い、それを私に伝える形ではどうかとの提案があったようで、私はそれなら構わないと言ったのだが、肝心の外記が何やら不安がっていた。


 聞けば、彼は医者としての学問を専門で学んだことはなく、医学書を和訳するにあたり、医者たちから最低限の知識を教えられただけであり、私の望むような対応が出来るか分からないという。


 私にはそれが不思議で仕方なかった。仮にそれが事実であったとしても、長崎にいる間、彼は私が教える最新のオランダ医学を理解していたのだから。だから私は、君は日本で一番オランダ医学に通じた男なのだから自信を持てと励ますと、彼も覚悟を決めたようで、的確に患者の症状を報告してくれたので、問題なく処方することが出来た。



(中略)



 将軍への謁見も終わり、一行が長崎へと戻る日、外記、淳庵、甫周の3人が見送りに来た。とりわけ外記は、私が植物採集に難儀していると聞いていたのを憂慮し、私が長崎の街の郊外へ出歩く許可を餞別に贈ってきた。


 実を言うと研究が思うように進まなかったので、その年の船でバタヴィアに戻るつもりであったが、弟子の厚意を無碍にするわけにもいかず、もう1年日本に滞在することとした。



(中略)



 長崎へ戻ってから、外記があのとき治療にあたった姫と婚約したことを聞いた。なんでも以前から、2人は相応の仲だったようで、だからあれほど必死になって姫を救おうとしたんだねと、後になって外記にお祝いの手紙を送ったのだが、返信は「別にそういう理由ではありません」と素っ気ないものであった。照れ隠しのつもりだろうか。



(中略)



 さて、本著はヨーロッパからアフリカ、アジアと各国を見て回り、その風土を紹介するという目的で書いたのだが、思いがけず日本に関する記述だけが長くなってしまった。それだけ私が日本で得た経験が大きな衝撃であったという証である。


 ヨーロッパから遠く離れた極東の地には、西洋との交流を拒む者たちが、我々とは異なる文化を育てていた。


 そんな中で世界の動きを僅かながらに感じ、国のため民のために見知らぬ知識を知りたいと願い、私の教えを受けた3人の弟子は、間違い無く日本を代表する学者になるであろう。


 中でも藤枝外記は、いずれヨーロッパの大学者たちにも肩を並べる存在になるであろうことを確信し、本項の締めとさせていただく。


――カール・ペーター・トゥーンベリ 『ヨーロッパ、アフリカ、アジア紀行』




 後にスウェーデンで刊行されたこの本は、当時あまり知られることの無かった日本という国に関する詳細な資料として欧州各国の言語に訳され、知識人階級の間で知られることとなった。


 そして、その内容が巡り巡って外記の耳に入るのは、この後しばらく先のことである……




◆ ◆ あとがき ◆ ◆


 トゥーンベリの『ヨーロッパ、アフリカ、アジア紀行』は全4巻のうち、第3巻と第4巻の前半が日本に関する記述となっており、後にフランスの東洋学者ルイ・ラングレスがその部分だけを抜き出してフランス語訳したものが、本話のタイトルでもある『ツンベルグ"日本紀行"』となります。

 本話はその日本語訳(昭和三年・山田珠樹氏訳註)を参考といたしましたが、もしかしたら史実より日本に関する記述の分量が増えているかも……?

 また、本章で書いた種姫毒殺未遂に関しては、訳文中で書かれていた"貴人の病"という項にて、トゥーンベリが将軍の姫の病を診察したという記述を元にした脚色です。

 実際はこの時点で将軍家治に姫はおらず(既に死去)、江戸城内に徳川の血を引く姫は種姫か妹の定姫しかいないので、詳しい病名や人名が書かれていないことをよいことに、種姫がエライ目に遭うという話にした次第です。


 明日、第三章登場人物まとめを投稿して、本章完結となります。よろしくお願いします。

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