私、失敗出来ないので
『直接患者の容態を見なければ、正しい処方は出来ませんよ』
田安邸に着いた俺とツンベルク先生、そして中川さんと桂川さんは、急ぎ姫の伏せる床へと向かった。
ところが……部屋に入る前に、田安家の御家老から、直接の診察は叶わぬと伝えられたのだ。
幕閣は宗武公のあまりの剣幕に恐れ慄き、先生の入城を認めたが、診察は襖と御簾を隔てた隣の部屋からの問診のみ。顔色を覗うことも脈を測ることも相成らぬと言うのだ。
そんな馬鹿な話があるかってんだ。既に症状も処方もよく知られた病なら、未来でもオンライン診療みたいなものはあるが、今回は直接診なければ絶対に治療法を決めることは出来ない。未来人なら素人でも分かりそうなことだが、そんなに体面が大事だと言うのか……
「申し訳ござらぬ。某の力が足りず……」
「御家老様のせいではございませんが、何を考えているのか……」
本当はふざけんなこのヤローと声を大にして言いたいが、御三卿の家老は基本的に直臣ではなく、旗本からの出向なのだ。大名級が務める老中や若年寄に楯突くのは難しいだろう。
『ゲーキ、これでは診療にならんぞ』
『ですよね……』
「安十郎……様、そこに……おられるのですか?」
「……姫?」
俺たちがオランダ語で話していたのが聞こえたのか、姫が俺を呼んだ。
「姫、私が師と仰ぐオランダの医師を連れて参りました」
「そう……なのですね。でも……なにやら揉めておるように……」
「畏れながら、オランダ人が姫の肌に直接触れるのは罷りならぬと……」
「ならば……安十郎……様が診ては……くださいませぬか」
「私が……でございますか?」
病床の身にあっても、姫は何が問題になっているのかを把握したようで、先生が診れないのであれば、俺が診た結果を先生に伝える方法ではどうかと仰っている。
「それしかあるまい。外記、お主が診てくれ」
「中納言様……しかし」
「あ奴らはオランダ人に診せてはならんと言ったようだが、外記が診てはならんと申しておったか?」
「はっ、藤枝殿が診てはならぬという指示は受けておりませぬ」
……ええ~! こじつけぇ〜(IKK○さん風)
「安十郎……様……」
「……分かりました。先生と少し相談してみます」
いや、参ったぞこれは……俺にそんなことが出来るだろうか……
『ゲーキ、どうなった?』
『主が、私が診察したものを先生に伝えて判断してもらってはどうかと』
その話を聞き、先生はそれなら大丈夫だろうと仰るが、俺が診て正確に伝えられるかどうか……
『ゲーキは何を不安がっている?』
『先生……?』
『以前から思っていたのだが、君は農学や商学などの分野では特異な才を見せているのに、医学に関してだけはどうも臆病というか、遠慮がちな気がする。たしかに君は医学を本業とはしていないようだが、私から見れば、君は十分に最新のオランダ医学を修めている。細かい診察項目は私が指示を出すから、自信を持って臨め』
「藤枝殿、貴殿なら大丈夫だ」
「そうです。解体新書のときの自信は何処へ行ったのですか」
……たしかに俺は医者じゃないからと、どこかで線を引いていたのかもしれない。
どうも医者というと、難しい勉強をして難関の国家試験をパスした者のみが就ける職、という未来のイメージが強いんだよな。
だけどこの時代の医者に免許など存在しない。昨日まで全く違う仕事をしていた者が、翌日になって突如医院を開業するなんてこともザラにあるし、高名な医者に師事したと言っても、すぐにそれを証明できるようなものがあるわけでもない。
つまり、医者という職業を名乗るのに、未来ほどハードルは高くないのだ。だからこそ藪医者ってのが街中に氾濫しているわけだ。
それらと比べたら、気付かぬうちに十分に知見を得ていたのだろうか。
もしかしたら、俺が自信なさそうにしているのを見て、先生は発破をかけてくれたのか。だけど本当に能力が無いと思えば、そんなことは仰らないだろう。
「……分かりました。やります」
となれば、俺がやるしかないだろう。
ここで、「私、失敗しないので」って言えればカッコいいんだけどな……
現状を端的に表すなら、「私、失敗出来ないので……」だよな。
『脈は』
『落ち着いてはおりますが、時々乱れがあります』
『熱は』
『やや高め、発汗も多いです』
『呼吸は』
『気道が詰まっている様子もなく正常です』
それからしばらく、俺は先生の指示に従い、姫の容態を診察し続けた。
脈を取られたり、首筋あたりを触診されたりして、姫が若干恥ずかしそうにしているのだが、そのリアクションで俺も恥ずかしくなるわ。
『ゲーキ、心音を確認してくれ』
……心音? 心臓の音ってことだよな。
聴診器なんてものは無い。となると……
『直接耳を当てて聞くんだ』
「はぁ!?」
「安十郎様、どうか……されましたか」
「いや、その……」
「外記、遠慮は要らぬ」
一刻を争う事態なのだから躊躇いは不要と宗武公は仰るが、本当に大丈夫だろうか……
「先生が……心の臓の鼓動が正常か確かめろと」
「どのようにして?」
「直接耳を当てて……」
「……構わん。やれ」
ひゃ〜、宗武公の目が怖い……
「安十郎様になら、私は……大丈夫です。お願い……します」
と言いつつ、姫の顔も真っ赤になっている。それは毒の症状による発熱だけではなさそうだが……
◆
『先生……分かりましたか』
『うん。症状から毒の種類も絞れた。あとは毒素を体内から逃がす処方をすれば大丈夫だろう』
グッタリ……外科医が大手術のあと疲れ果てる気持ちがよく分かったわ……
『これから治療法について説明を行う。ここ一両日中が大事となる』
先生の見立てによれば、摂取してしまった毒素はごく微量のようなので、それが直ちに命を脅かすことはなさそうだとのことだ。
しかし、そのまま体内に残したままというわけにはいかないので、下剤を投与して胃や腸の中に残っているものを吐瀉物なり便として排出し、毒素ごと体外に出すことになる。
当然その間、栄養的な成分は摂取出来ないから、処方は早急に行わなくてはいけないようだ。
『後はゲーキ一人で対処出来るはずだ』
『やってみます』
そのやり取りを見て、とりあえず一命は取り留めることが出来そうだと分かり、田安の家中の者たちが周囲でホッと胸を撫で下ろしている。
「蘭医殿、無理な願いを聞き届けてもらい、感謝する」
『医者は人の命を救うのが仕事です。当然のことをしたまで』
「この礼は何をもって報いようか。望みはあるか」
『ならば、今回姫を救ったのはゲーキということにしていただきたい』
先生の言葉を訳し宗武公に伝えると、公はどういうことかと不思議な顔をしている。
『詳しいことは分かりませんが、私がここに居ることを知られるのはよろしくないように見受けます。ならば、今回治療を成したのはゲーキということで。私は彼に聞かれて長崎屋において助言しただけということにしてください』
「こちらの事情まで斟酌してもらい、感謝する」
『さて、治療法も伝えたし、私たちはこれで帰るとしましょう』
こうして、バタバタと慌ただしく三人が帰るのを玄関で見送りながら、俺は先生にある疑問をぶつけてみた。
『私の手柄で良かったのですか? なんなら植物採集で長崎の街の外を出歩く許可なんかを望めばよかったのに』
『そういう手もあったか。ただ君には借りがあるからね』
『借り?』
『夏至祭』
そう言って先生が片目をパチリと閉じて見せた。ああ、そういうことか。先生がスウェーデン人だってことを俺が知ってて黙っている見返りってことね。
『日本を離れれば、次にいつ会えるかも分からない。借りを借りのまま残しておくのは性分ではない』
俺としてはそれ以上のものを与えてもらっているから、そんなことを気にする必要は無いのだけど、こればかりは人の性格だからね。
『それとゲーキ、私がさっき言った話はお世辞でもなんでもない。君は十分に医者を名乗るだけの実力がある』
『ありがとうございます』
『ではな。江戸にいるうちに長崎屋にも顔を見せに来てくれよ』
こうして、ツンベルク先生は田安邸を後にして、種姫様の毒殺騒動は最悪の事態を避けることが出来た。
が、俺にとってそれ以上の事態が後日発生することになるとは、このとき考えすらしなかったのであった……
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