死なせはしません
種姫様が茶会の最中に突如倒れ、田安邸に運び込まれたのは
「一体何がどうなっておるのだ」
「それが……茶をお飲みになられたとたん、急に吐き気を催されたようで、程なく意識を失われたとか……」
運び込まれた姫に付き添う者に、治察様が状況を問い質したが、如何にも要領を得ないといった感じだ。
「姫が目を覚ましませんので、それ以上は」
その話によると、茶会の最中に突如として姫が嘔吐を繰り返し、後に意識を失って倒れたとのことらしい。
ただ、それは本人の口から聞いたわけではなく、そのとき診療にあたった奥医師殿が周りの者から聞いた状況によるもの。しかも、女中たちも右往左往するばかりで、人によって証言が異なっており、決定的な原因は掴めていないようだ。
「奥医師だけではアテにならん。外記、お主も診てくれ」
田安家付きの医師が診る中、宗武公は診察へ加われと仰るが、俺が医者なのかと言われると微妙なんだよな……それっぽい仕事はしているが、あくまでも翻訳者としてだからな……
「……あん、じゅうろう……さま」
「姫……?」
それでも呼ばれた以上は出来る限りのことはやらなきゃならない。そう思って床に近づくと、ふいに姫が目を覚まし、か細い声で俺の名を呼んだ。
「種、気がついたか」
「おとう……様、申し訳……ごさいません……」
「無理をして喋る必要はない。安静にしておれ」
「いえ……これだけは、お伝え……しなくては……安十郎様……毒を盛られたように……ございます」
「毒ですと……」
姫が枕元に俺を呼び、途切れ途切れでゆっくりとした口調ながら、そのときの様子を話してくれた。
その話を漏らさぬよう聞き取れば、茶を口に含んだ後に急に吐き気を催し、危険を察した姫は咄嗟に、腹に含んだ物を憚ることなく嘔吐し、出せる物を全て吐き出したところで意識を失ったらしい。
「安十郎様に……教えていただいたことが、役に……立ちました」
姫の言う教えとは、以前に毒を盛られたらどうするかという話をしたときのことだ。
「茶を口に……含んでから、舌や口の中に痺れを……感じ……」
「それでそのときの教えに従い、腹に納めた物を全部吐き出したのですね」
「ええ」
「外記、種はなんと?」
「おそらく……茶か器に毒が仕込まれていたようです」
「なん……だと……」
状況から考えるに、それが一番可能性が高い。大奥で多くの監視の目がある中で、どうやって盛るのかという方法論は別にして、体調の急変と姫の証言からほぼ間違いないだろう。
そのことを伝えると、宗武公の顔がみるみるうちに真っ赤になる。そりゃ、娘が毒殺されそうになって怒らない親の方が珍しいよな。
「おのれ……一体誰が……」
公が今にも人を殺しそうな目をしている。それは、姫に毒を持った犯人に向けてか、はたまた養女の話を持ち込みながら、このような失態を招いた幕閣、すなわち、田沼を筆頭とした老中や若年寄たちに対してなのか……
「安十郎……さま」
「姫、無理に話すことはありません。安静に」
「夢を……見て……おりました」
「夢?」
「光も見えぬ……暗闇……とても怖かった。でも、安十郎様の……声が聞こえた……気がして……」
「ええ、ええ。安十郎はここにおりますぞ」
倒れて意識を失っていた間、悪夢にうなされていたのだろうか、姫の額から玉のような汗が流れ、顔色も芳しくない。
「外記、種は本当に毒を盛られたのか?」
「姫の容態から見て、十分に考えられます。ただ、仮に致死量の毒が体内にあれば、既にお命は無いところでしょうが、意識があるということは、殆どは吐き出しているものかと。姫が機転を利かせたおかげでしょう」
しかし、この衰弱した様子を見れば、全ては出し切れていないだろう。
どうやって解毒する。毒の種類すら見当も付かないというのに……
失敗したな。医学は解体新書のメンバーに任せておけばいいと考えて、難しいところは結構聞き流していた部分もあるからな……こんなことなら、もう少し本格的に学んでおけばよかった。
「種は……死ぬのでしょうか……」
「死なせはしません」
「安十郎様なら……そう言うと……思いました。約束……しましたもの……ね」
姫が俺に向けて、力なく腕を伸ばしてきた。
混濁した意識の中で必死に助けを求めているのだろうか、汗に混じって涙が瞳から零れ落ちている。そんな姿を見せられて、何も手を打てないなんて言っていられるわけがないじゃないか。
けど、俺一人では……どうする……
いや、待てよ……いるじゃねーか。今江戸にいる者の中で、最新の西洋医学を知る人が……
ただ……その人をここへ呼ぶのは……
「構うものか……そのときはそのときだ」
そもそも大奥や幕閣のせいで引き起こったことだ。これで俺が怒られるのならば、アイツらの失態も明らかになる。こんな幼い姫を、政略のドロドロに巻き込んで死なせるわけにはいかないだろ。
そうと決めれば迷いは無用。俺は宗武公の方へ向かい、とある相談をすることにした。
「外記、いかがいたした」
「中納言様、お叱りを覚悟で進言いたします」
「……申せ」
「万全を期すために、私が知る中でも最高の蘭医を呼び寄せたく」
「解体新書で共に和訳にあたった者たちか」
「そのほかに、日本橋本石町の長崎屋より」
「……!! まさか」
宗武公は俺の言わんとしていることを察してくれたようだ。
そうだよ、長崎屋に逗留しているじゃないか。カピタン付きの医官、カール・ペーター・トゥーンベリ……もといツンベルク先生、そして俺の仲間たちが。
「先生の技量、この外記が保証いたします。助かる可能性を少しでも上げるならば、最高の腕を持つ医師に診せるべきかと」
「しかし……オランダ人を……」
つい先日、カピタンの謁見があったが、あれは幕府の公式行事であり、それでも物々しい警備であったのだから、体調が悪いからと軽々しく往診のために城内へ招き入れることが簡単な話ではない。宗武公が逡巡するのは当然だ。
「突拍子もない考えと思し召しかもしれませんが、何としても姫をお救いしたい。されど、私の知見だけでは足りませぬ。責任はこの外記が全て負いまする。何卒……」
「……相分かった。諸役には余から話を付けておこう。其方は即刻、その医官を連れて参れ」
「ははっ」
◆
<長崎屋>
『なるほど……それで私に診てほしいと』
長崎屋に向かうと、思ったとおり中川淳庵さんと桂川甫周さんが先生の教えを受けているところだった。
「奥医師でも手に余りましたか……」
「なにしろ姫が目を覚まさないので、毒なのか急な病かも判断できず、処置に迷ったようです」
桂川さんは幕府の御典医を務めながら、解体新書の和訳にも興味を示し、かなり早い段階で読み分け会に参加されていた同志である。
江戸に戻る前に、和訳に参加した面々にはツンベルク先生のことは伝えており、それを聞くや二人は喜び勇んで長崎屋にやって来たのだが、残念なことに今日は前野さんは姿を見せていないようだ。
「前野さんは今日はおられぬのか……?」
「前野殿は一度も長崎屋に足を運んではおりません。会うわけにはいかないと申されて」
「なんと……」
どういうことだろうと思ったら、前野さんはツンベルク先生宛に手紙を書いたそうで、そこには見事なオランダ語の文章で、「会って話をしてしまうと、私の探究心に抑えが利かなくなり、家族や主君を捨てて遠くオランダまで貴方に付いて行くことになるだろうから、残念だがお目にかかるのは遠慮したい」と記されていたそうだ。
俺から前野さんのことを聞いていた先生は会えないことを残念がっていたけれど、中川さんと桂川さんも非常に優れた医師なので、よろしく教示してやってほしいという締めの言葉を見て、ならば知る限りの知識を教えようと、毎日最新の西洋医学を伝授してくれているのだとか。
『そうか……前野さんも居てくれたら心強かったのですが……』
『それはそうと、藤枝殿、先生を城の中に入れても大丈夫なのですか』
『中納言様の許可は得ております』
『いいでしょう。毒の症状に冒されているとあれば、猶予はありません。
『もちろんです。お二人もご同道願おう』
こうして俺たちを乗せた駕籠は、急ぎ田安邸に向かうのであった。
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