長崎行きの思惑

――安永四(1775)年八月


「田沼様はお前さんの力を恐れている」


 源内さんにそう言われたのは、もう一年も前の話になる。




 あれからすぐ、賢丸様は白河藩主松平定邦公の一人娘を妻に迎えて養子入りすることが決まり、その身は田安邸から八丁堀にある白河藩上屋敷へと移った。


 俺の家に学びに来ることを阻害しないという条件で養子入りしたそうだが、それでも嗣子となった以上、これまでと同じとはいかず、ここ最近は種姫様を含めて屋敷にお見えになる機会はかなり減ったので、綾にマンツーマンで講義することが増えた。


 それが老中の狙いなのだろうか。


 源内さんも色々と思うところがあったのか、多くを語ってはくれなかったので、俺と田安家が懇意にして何の弊害が? というところについて正確なことは分からないけど、おそらくは権力絡みなのかなと思っている。




 俺は田沼の業績を歴史で知っているが、その人柄パーソナリティは知らない。財政を立て直すために新しいことに挑戦しているのは方向性として間違っていないと思うが、それと彼自身が清廉な人物であるかはイコールにならないのよね。


 重用してくれた将軍への恩義から、幕藩体制をなんとか維持しようという義理堅さは感じるけど、元は六百石の旗本から万石の大名、老中まで登り詰めた男だ。そこに自身の権力基盤の安定を願う意図が無いとは言い切れない。だから俺の存在が自身の権力にとって驚異に感じれば、保身のために排除の方向に動く線は十分に考えられる。


 元々田安家は将軍家に……これは先代家重公と宗武公の仲が悪かったせいだが、あまり重んじられていないことを家重公の側仕えからのし上がった田沼が知らないはずもなく、事実彼は弟の意誠が一橋宗尹公の小姓から始まって生涯一橋家に仕えていたこともあってか、御三卿の中でも特に懇意にしていた。一橋の家老の娘を自身の妻としていることからもそれは明らかだな。


 ところが、ここにきて俺が始める新しい事業を支援することで、田安家の名声が日に日に増し、さらには治察様が家基様と懇意にしておられるものだから、家基様が田安の意を汲んで動く可能性や、万が一のことがあったときに後継に治察様や賢丸様の名が真っ先に上がるかもしれないという事態を危惧し、先手を打って賢丸様を白河へ閉じ込めたと思うのは穿ち過ぎだろうか。


 ただ……それだけで俺と田安家の繋がりが切れるわけはない。となると、やはり今回の目的は……


「おう麒麟児、何ボケっとしてんだ。見てみろよ、富士のお山があんなにでっかく見えるぜ」

「元気ですね……」




 俺が考え事をしながら歩いている後ろから声をかけてきたのは、長谷川平蔵宣以殿こと鬼平さんだ。


 京都町奉行を務めていたお父上が亡くなり、長谷川家の家督を継承した鬼平さんは、昨年西の丸書院番、つまり家基様の警護を司る番士に任ぜられていた。


「大事なお役目を果たそうってのに、なんだよその湿気た面は」

「色々と考えることが多いんですよ」


 俺たちは今、東海道を西へ西へと進んでいる。その目的地は長崎出島のオランダ商館だ。



 ◆



 それは今年の春、月例の家基様への報告の場での話だった。


「私のお役目に疑義があると?」

「うむ、蘭書和解御用と言いながら、訳したは解体新書の一冊のみ。一体その後は何をしているのかと」

「そう仰っても、一冊訳すのに三年を超える月日を要したのです。一朝一夕には……」

「余は分かっておる。だが其方を快く思わぬ者もいるようだ」


 蘭書和解は持高勤めなので、家禄と別に俸禄を支給されているわけではないが、煩く言う連中はそういうことではなく、俺が家基様に目をかけてもらっているのが気にくわないのだろう。


「そこで田沼侍従から提案があった。長崎へ参り、オランダの知識を出来る限り修めてきてはくれぬか」

「長崎……でございますか」


 田沼意次の名前がここでも出てくるとはな……


 源内さんに言われてこともあってか、何らかの意図を持って動かされている気がしてならない。


「江戸にあってあれほどの大業を成したのであれば、長崎へ行けばより多くの知識を得てくるはずだと。それでお主の真価が分かるだろうと」

「して、期間は」

「半年」


 おいおい、ムチャクチャ言うなよ……


 出来る限りと言うのは、言葉通り出来る限りの学問を修めてこいということだ。しかも期限は今年の夏、江戸在府の長崎奉行が下向するのに合わせて向かい、来年のカピタン江戸参府と共に戻ってくるまでの半年だという。


 子供のお遣いじゃないんだから、そんな短期間で具体的な指示もなく何を学べと言うのか。もし何も身に付かなかったら、江戸に戻ったときに笑い物にする気か……


「御老中は何をお考えなのでしょうか」

「心配するな外記。其方が懸念するところはこの家基、十分に分かっているつもりだ。お主も治察も、余に忠実であることを信じている」

「なれば……」

「今回の長崎行きは、其方の身を守るためでもある」


 その話しぶりを聞くに、家基様は田安家のことを頼りにしてくれているようだし、元はと言えば蘭書和解の役を与えたのはこの人なので十分承知はしているが、それでも俺に長崎へ行ってこいと勧めてくる。


「江戸は少々騒がしいようだしな」


 虎の威がたくさんありすぎるがゆえに、却って俺への風当たりが強いという部分もある。直接文句を言うことが出来ない分、それはどこかで燻り続けることになるだろう。


 幕閣としては、それら不満を唱える者に対してのガス抜きも考えなくてはいけない。そこで田沼が長崎行きを提案した。


 そうすることで下の者の声も聞いているよというアピールになるし、騒動の火種が江戸からしばらくいなくなれば煩い声もやがて静まる。さらに、俺が何か有用なものを持ち帰ってくれば尚上々といったところか。


 逆に……成果が無くとも責任は無能だった俺一人のせいということで、幕閣に痛手はないという、お偉方の考えそうな事情もあるんだろうな。


「余の口から断っても良いのだが、彼らと要らぬ軋轢を生むのもこれからを考えるとよろしくない。なれば、煩い奴らがおらぬ長崎で修学するのも悪くないかと思うのだが」

「私が収穫を得てくると見込んででしょうか」

「もちろんだ。老中たちの鼻を明かして参れ」

「大納言様の命とあらば」

「そうか、礼を言う。その代わりといってはなんだが、お目付役はなるべく自由に行動出来るよう融通の利く男にしたぞ。入って参れ」


 そう言って家基様が小姓に命じると、一人の男が姿を現した。


「長谷川平蔵、お呼びにより参上いたしました」

「えぇ……」

「久しぶりだな麒麟児」



 ◆



「難しい顔しなさんな。大納言様もお前の身を案じておるのだ」

「平蔵さんがお目付なのに?」

「俺以上の目付役などいないぞ」


 今回のお目付役は、俺が遊学中に真面目に勉強しているかを見張るという役目だ。


 老中たちは別の人物を充てる予定だったらしいが、家基様がそれくらいはこちらで決めさせろと仰り、平蔵さんが推挙されたわけだ。


 この人はこう見えて、というか、若かりし頃のアレを見ても分かるように強い。事実、一刀流の目録を授かるくらいの剣の腕前は持っている。言ってみれば俺のボディーガードとしての技量は十分であり、それに加えて下手に行動を縛る目付役よりは俺が自由にやりやすいだろうだろうという家基様の配慮である。


 その配慮、要るような要らないような……




「しかし、平蔵殿はよかったのですか」

「何がだ」

「たしか書院番士になって一年ちょっとは経ちましたでしょう。そろそろ他の役に動かれる頃だったのではないかと」

「どうだろうね。俺は元が元だからね、声がかりがあったかどうか。だったらこっちの話に乗った方が確実だろ」


 なにしろ今回の話は家基様直々の声がかりだ。大過なく役目を果たせば、自分のことを嫌いな上役でも評価はせざるを得ないと睨んでいるらしい。


「偏屈な上役に媚び媚びで昇進するくらいなら、こっちの方が大納言様の覚えもめでたいし、手っ取り早いじゃねえか」


 そう言って平蔵さんはケラケラと笑っている。ま、この人らしいっちゃらしいな。


「しかし、長崎ってのはどんなところなのかねえ」

「出島のほかに唐人屋敷などもあるみたいなので、江戸には無い珍しい物があるのではないでしょうか」

「そいつは楽しみだ」

「ただ、それ以前に……お役目をちゃんと果たせればですよ。私のことを憎く思う奴はごまんといるみたいですし」

「おいおい、怖いこと言うなよ」

「その時は平蔵殿に盾になってもらいますので」

「かぁ~、ちゃっかりしてやがるぜ」


 こうして富士の山に見守られながら、俺たちは一路長崎を目指すのであった。

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