それはもうひょんなことから
藤枝家は湯島妻恋坂に居を構える。
湯島は江戸城の北側、西は本郷、北は上野、南は神田に囲まれた、やや南北に細長い一帯に位置する。
おそらくこの地で後世一番有名なのは、湯島天満宮だろう。
学問の神様菅原道真公を祀り、シーズンになると合格祈願に受験生やその家族が大勢訪れる神社である。
ただ、天満宮は湯島の一番北側、上野の不忍池に近い場所であり、一方で我が家のある妻恋坂は湯島でも真ん中よりやや東南側、目と鼻の先に神田明神があるという位置取りだ。
ちなみにこの妻恋坂という名前は、坂の上に妻恋稲荷という、日本武尊とその妃である弟橘媛を祀った神社があることに由来する。
何が一番ありがたいかと言えば、本所に比べて田安邸にかなり近くなったこと。距離にして約半分、
◆
「よっ、暇か?」
「某は暇を持て余して土いじりしているわけではございませんぞ」
……というわけで、俺の家から田安邸まで近くなったということは、逆もまた然りで、お忍び行脚に目覚めた賢丸様がちょくちょく足を運ぶようになった。
まあ……治察様に若君が生まれ、今までより多少お気楽な立場になったこともあるのだろうが、今日も今日とてフラッと現れては裏庭まで回り込んできて、畑仕事をしていた俺のところまでやってきたのだ。
「若様、ようこそお越しくださいました」
「おお、綾。私の来訪を歓迎してくれるのはそなただけじゃ」
「私が歓迎していないように聞こえるのは気のせいでしょうか?」
「それはお主の心の持ちようではなかろうか」
賢丸様がやって来たと聞き、綾が挨拶をする。
元々徳山の家で雇ったものの、彼女のことを頼まれたのは俺自身なので、藤枝に養子入りする際に母娘共々こちらへ一緒に連れてきたのだ。
最初は何も分からぬ町娘だったので失敗も多かったけれど、保護したのは賢丸様がその身を案じてのことと話すと、その御恩に報いたいと懸命に武家の奉公人としての作法を身に付けるようになったし、そのほか農学も修めさせている。
さすがは四千石の屋敷とあって、この家には遊閑地が多い。そこで色々な作物の栽培実験をするために裏庭で畑づくりを始め、その手伝いを彼女に行わせるためだ。
武士が畑仕事など……と、藤枝の家中にはいい顔をしない者もいるにはいるが、俺がどういう人物であるか分かった上で養子に迎え入れた以上、その懸念は筋違いであるし、これが俺の仕事の一環だと言えば否とは言えないだろう。一応世間体を気にして通りから見えない裏庭でやっているだけ譲歩したと思ってもらいたい。
「殿、若様がお見えになりましたので、少し手をお休みになられては」
「そうだな。では賢丸様を案内し、茶でもてなすように」
「かしこまりました。では若様、こちらへ」
「うむ」
「お兄様……肝心なことをお伝えもせず、何をそそくさと行こうとなされておられるので?」
なんだ……この絶対零度のような凍りつく声は……
「外記様も、どういうことかご説明願えますかしら? 随分と楽しそうに土いじりをされておられますね」
殺気……いや、殺気などという言葉では生温いくらいの圧……
(まさか……)
声のする方に向けて、俺の首が壊れた機械仕掛けのようにカクカクと動く。
すると、その視線の先には……
「ひめ、さま……?」
「あら、私以外の何者かに見えまして?」
正直に言おう。種姫様の皮を被った物の怪の類いだと思った。
なんなのさ、この漆黒オーラ。鬼平さんが発してたのと遜色無えでゲスよ。
「賢丸様……」
「すまん。今日はどうしても共に参ると言うて聞かんでな」
「そういうことは先に仰ってください……」
「よそのお屋敷にお邪魔したのは初めてですが、思っていたよりもしっかりとした造りなのですね」
「行人坂の大火で焼けて再建したばかりですので」
「そうなのですね。ただ……私がお伺いしたいのはそんなことではございません。一体どういう了見なのでしょうか」
「申し訳ございませぬ。何のことを仰せなのか……」
「分らぬと? 聡明で知られる外記様が分からぬと?」
今日は何やらご機嫌斜めなご様子に、一体どうしたのかと問いかければ、何故か綾のことを気にしておられるようだ。
「最近は何かあればお兄様の方から出向いていると聞き、如何なることかと思いましたが、そちらのお嬢さんと随分親しげに庭いじりをなされているご様子ですわね」
「い、いや、庭いじりではございませんし、なによりこの娘は……」
「言い訳無用! 私に黙って……」
えぇ……たしかに綾のことは言ってないけどさぁ、言う必要もないですよねぇ……
「急に屋敷に顔を出す機会が減ったと思っていたからおかしいと思っていたのです。お兄様に伺っても色々事情があるのだと仰るばかりで詳しい話は何も知らされず、意を決して逢いに来てみれば幼子と仲良く庭いじりしている光景を見せつけられて……まさか斯様な小娘を囲っておられるとは露ほども思いもしませなんだ」
「いや違いますから……」
いやね、田安邸に顔を出す頻度が減ったのは家基様の面子を考えてですよ。向こうは月に一回で、田安家にそれより多く顔を出しては、「どういうこと?」ってなりますから仕方ないんです。
それにそのことと綾は関係ないし……
「綾はひょんなことから某が保護することになりまして……」
「ひょん? ひょん?? ひょん??? ひょんとは何ですの! そう言えば、『ああ何か深い事情があるのですね……』なんて言うとでも思いましたか? ひょんなことからなんて濁したような物言い、却って後ろめたいことがありますと仰っているようなものではありませんか。新たな作物をお育てになると仰るなら田安の屋敷の中に畑などいくらでもご用意しましたし、私が喜んでお手伝いいたしましたものを。だいたいその娘は何者なのですか! 外記様に侍ってたいそう楽しそうな顔をして、その娘がそれほど良いと申すのですか? 綾……などと気安く名前呼びまでされて、私では駄目だと仰せなのですか? 私ですら名前で呼ばれたことなど一度も無いというのに、うらやましいうらやましい腹が立つうらやましいうらやましい嫉妬ではありませんうらやましいうらやましい私だって種って呼んでほしいのにうらやましいうらやましい……」
「種、落ち着け」
「どの口がそのようなことを仰るのですか! 足しげくこちらのお屋敷を訪れていたということは、お兄様は全てご承知だったのでございましょう。外記様が若い娘を囲って私を除け者にしていることを知りながら、今日の今日まで黙っておいでであの娘を見たらお兄様までニヤニヤし始めて……あちら方面の嗜好ではないと思ったらこちら方面の嗜好であったとは……うらやましいうらやましいおぞましいうらやましいうらやましい破廉恥なうらやましいうらやましい不届至極うらやましいうらやましい無礼千万……」
ああ……種姫様房総、ではなく暴走モード突入でございます。何がそんなに逆鱗に触れたのでございましょう……
「あ、あの……種姫様」
「……そなた、何故私の名を知っている」
「殿からお名前は何度も伺いました。才気に溢れた素晴らしい姫君だと」
「さ……才気に溢れた……外記様が?」
恐る恐るながらもこの状況で声を発した綾にも驚いたが、その言葉を聞いて種姫様が顔を赤らめて上気している。
「殿に拾っていただき、そのお仕事の手伝いをせよと命じられたときは、何の学も無い町娘に出来ることではないと思いましたが、誰しも最初は無学であり、学ぶ姿勢に貴賤男女の別など無いと仰ってくださって、そのときに種姫様のお話を聞きました」
ああ、そんな話もしたね。武家の奉公人が畑仕事など……と及び腰になることを見越して、綾を助手として育てることにした。そうなるとそれなりの知識を身に付けてもらわなくてはいけないから、読み書きから始めて今や本も一人で読めるようになった。それも、この時代の多くの女性が読むような古典文学とかではなく、ガチの学術書の類いだ。
そのときに話したのが、種姫様の勉学に対する姿勢。綾はそれに感銘を受けたようで、それからも姫様のことは何度となく彼女にその為人を話していたのだ。
「私がここまで努力できたのは、種姫様の存在があればこそです。ひょんなことではございますが、お顔を拝し奉り光栄にございます」
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