蘭書和解御用掛
「まずは外記のお役目就任を祝おう」
「ありがたき言葉」
家基様に目通りをして一月ほど後。俺に役職が与えられた。
西の丸付
そう、今回の役職は家基様が俺を繋ぎ止めておきたいがために新しく作った役職なのだ。西の丸付と言うが、そもそも本丸にもそんな名前の職は無い。
「大納言様は随分とご執心のようじゃな」
「ありがたいお話ではありますが、役職に就くとは露ほども思っておりませんでしたので。治察様があの場に同席いただいて助かりました」
あの後、家基様は俺を自身の側仕えに登用したいと治察様に話していた。
それは俺が田安家の皆様に引き立てられた男であり、将軍世子とはいえ、芽が出てきたところでそれをいきなり奪い取って自分のものとするのが憚られたためだと思う。その口ぶりから、近習小姓あたりに取り立てる考えのようだった。
高位の職に就く場合、慣例として下積みの職を経験してからということが多い。例えば江戸の町奉行は、目付から遠国奉行や勘定奉行を経験してから就くのがほとんどで、役高が足りているからと、それまで無役だった者がいきなりそこに任じられることはあまり例が無い。
つまり出世を目指すのであれば、軍事部門の番方にしろ、政務部門の役方にしろ、未来で言うところの平社員からスタートするのが筋である。中でも近習小姓なんてのはエリートコースの手始めにはもってこいの職だ。
しかし、書院番や小姓組などの番士で役高は二百石から三百石くらいだし、将軍や若君に近習する小姓で五百石だから、旗本寄合席の家禄には見合わない。
高禄の旗本に無役が多いのは、家禄に見合わない役高の職に就かないからその先の出世コースにも乗れないというところなのだろう。
家督を継ぐ前の状態であれば話は変わるが、生憎と俺は養子入りしていきなり四千石の主になったわけだし、そんな人間がいきなり入ることとなると、同輩たちがやりにくくなるのは明らかだ。治察様はそこを懸念するフリをして、登用は控えるよう進言してくれたのである。
「外記にとっても渡りに船であろう」
「仰せの通りにございます」
俺の考えのバックボーンは、この時代より遥かに知識も技術も深度化した未来の教育によるもの。専門家ではないから、一つ一つの知識はあやふやなところもあるけど、それでもこの時代のそれより遥かに上をいっているものも多いと思う。
ただ、いざ実行するとなると、未来の知識なんて言えるわけがないから根拠を示しづらい。
そこで役に立つのが蘭学だ。この時代の西洋文明研究はまだまだ黎明期であり、その第一人者というネームバリューが俺の発言の信憑性を増す。もちろんフリだけではなく、実際にオランダの知識や技術を学び、そこに未来知識を加えて効果が増せば上出来だ。
そのためには蘭学研究に邁進する時間が欲しいので、ある程度自由に時間を使える持高勤めの旗本寄合席という環境は丁度良かったのだが、これが変に役付になって、格式張った上意下達の世界に放り込まれるとなると少々面倒だ。
余計な時間や金銭の浪費は遠慮したかったし、そもそも蘭書和訳の話が幕府の上層に伝わるように仕向けたのは、出世欲ではなく、今後の研究が円滑に進むようにするためだからね。
もちろん出世して偉くなってから、公式の政策として実行するという道もあるだろうが、仮に老中になったとしても一人で全部決定できる権限は無いし、宗武公や治察様という虎の威を手に入れているから、学者として知識を巷間に流布する方が早いと考えている。
それでも役に就けと言われれば、旗本である以上受けるしかないし、俺自身、家禄と役高が見合わないからイヤだ! なんてことを言うつもりもないのだが、出来ればそっとしておいてほしいのが本音なので、学問に専念させるべきだという治察様の上申は非常にありがたかった。
とはいえ……そんな話を持ち出してきた時点で、家基様があっさりと引き下がるわけもなく、ならばその役目を幕府の公式な職にすればよいと考案されたのが、蘭書和解御用掛というわけだ。
月に一度の登城の際に家基様へ和訳の成果報告と言う名の雑談相手として参上する職。登城させる用向きを作るためだけの役職であり、現時点で俺以外の直参でこの職に就ける人物はいないから、役高の設定はなく、役料の支給もない完全な持高勤めで、定員は一名という言わば特別職だ。
「まあ治察にしてはよい落としどころを見つけたのではなかろうか」
「大納言様は渋られておりましたが、父に相談すると申せばそれ以上のことは言えぬようにて」
「こやつ……余を悪者にしおったか」
そういうことです。渋る家基様に向かい治察様が発したのは、「この件、屋敷に戻り父に諮りたく」の一言だ。
近々家督を継承するとはいえ、現時点で当主は中納言宗武公であり、立場は家基様の方が上とはいえ、相当に年上の親族相手にゴリ押しするわけにもいかず、妥協点を探って今の形になったのだ。
自身の一存で答えるわけにはいかないというのは確かにその通りであり、治察様もそうなる結果が分かっていてうそぶいた発言をしたわけだから、中々強かになられたものだと思う。
「まあよかろう。大納言が直接文句を言ってくるとは思えぬし、外記の和訳の成果を見れば、この判断が正しいと分かるであろう」
「そうなるように精進いたします」
息子にダシにされたのに、宗武公は意外と冷静であった。治察様が取った手段は、ある意味マキャベリズムに通じるところもあり、家督を継ぐにあたって頼もしく感じられたのかもしれない。
「さて、話は変わるが。四千石の跡を継ぎ、お役目も拝命したとなれば、次は嫁取りだのう」
「それはまた気の早いお話かと」
「そなたはもう十六、元服もお目見も済ませた旗本の当主ぞ。嫁を娶るに早いと言うことは無かろう」
未来で言えば中学生か高校生くらいの年で結婚なんて考えることはないが、この時代で言えば少し若いが嫁をもらってもおかしくない年齢。しかもそれが四千石の当主なのだから、そういう話を持ち込む家が現われておかしくない。
今のところ年内は喪中だから、正式な申し入れは無いけれど、それとなく俺の身辺を探る動きがあったり、内々に感触を確かめる打診みたいなものが実際にいくつか来ているのは、家中の者から聞いている。
「どうやら旗本だけではなく譜代の大名家も探りを入れているらしいの」
「よくご存じで……」
そうなのです。だいたい旗本の縁組みというのは、同格の家だったり、家禄はやや低くても縁戚だったりして何らかの繋がりがある家の娘を迎えるのが一般的であり、政治的な意向が全く無いところで、大名家の娘が旗本に輿入れするというのはあまり聞いたことが無い。
ただ、話が持ち込まれるとなると格的に向こうが上なので、中々断りづらい状況になってしまうんだよね。
「今しばらく縁談は考えておらぬということでよいか?」
「御意にございます。家督は継ぎましたが、未だ何の功も挙げておらぬ身でございますれば、今しばらくは蘭学の修得に励みたく、話はその後でもよろしいかと」
「よしよし。ならば話が来たときはこう申すがよい」
喪が明ければ、早晩縁談が舞い込んでくるであろう。もしやんわりと断ることが難しい相手であるなら、「縁談は田安家に一任しているから、話を通したければ中納言の了解を取り付けてこい」と言えと、宗武公が鷹揚に仰る。
「よろしいのですか?」
「構わん。そう言われて悟ることも出来ぬような家など論外じゃ」
たしかにそういった場で敢えてそれを口にするということは、少し考えれば宗武公が大いに関与していることを示唆しており、それを踏まえてゴリ押ししてくる者はそうそういないだろう。仮にいたとして、田安家の皆様の心証を悪くするだけだと思う。
「何から何までご面倒をおかけいたします」
「よい。余はいわば其方の親みたいなものだからの。恩に感じたなら結果でもって報いよ」
「ははっ」
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