体を解く新しき書
「この膏薬を毎日付けておれば、痛みも引くでしょう」
あれから数日後、杉田さんに綾の母親の治療をお願いした。
オランダ語はサッパリだけど、医術に関してはかなりの腕前のようで、杉田さん曰く薬をちゃんと使えば快癒するとのことだ。
「お武家様、治療代を返すあてが……」
「心配要らぬ。怪我が癒えた後は当家に住み込みで女中をしてもらう」
母娘の身の安全を図るという重大ミッション(?)を与えられた俺は、とりあえず父上に相談した。そうしたら、母娘住み込みでウチで奉公したらいいと快諾してもらえたのだ。
これが素性の分からぬ町人であれば、絶対に許可しないだろうが、賢丸様絡みのためか、父上にも何らかの打算があるのだろう。
ともあれ、身の振り方が決まったところで、母親が勤めていたという店の主人に引き取ることを申し出ると、こちらも快諾であった。
その店は江戸でも有数の菓舗であり、主人の菓子作りの知識は相当なものであったから、この先甘藷や卵を使った菓子作りで協力出来ることがありそうなので、思わぬ収穫であったことは付け加えておこう。
「私もお仕事するの?」
「そうだね。最初は仕事のやり方を学んで、もう少し大きくなったら、お母さんの手伝いをして働いてもらうよ」
「うん、がんばる!」
詳しい事情が分かっているかは怪しいけど、自分たちの住む家と母の仕事が保証されたことは分かっているようで、綾も嬉しそうな顔をしている。
……賢丸様、こんなところでイイっすか?
「杉田殿、世話をかけました」
「なに、徳山殿には世話になりっぱなしですから、お役に立てれば何よりです。それに、こちらもご相談がありますので」
「何でしょうか?」
診療所がある日本橋まで送ると、何やら蘭書和訳のことで相談があるとのことで、杉田さんに引き止められた。
「実は……そろそろタブラエ・アナトミカの訳本を刊行する準備に入りたいのですが」
「いよいよですか」
「ただ、前野殿が……」
「あ……相変わらずなのですね」
蘭語和訳の目的は、多くの人にオランダ医学を知ってもらうために始めたのだ。
つまりゴールはその成果である訳本の刊行なわけだが、前野さんがあまりいい顔をしていない。
「職人肌と言いますか、訳文にまだ納得されておらぬようで、私から見れば大筋が理解できるところまで訳せているのだから十分と思うのですが……」
中にはどうしても訳しきれない単語もあり、「〇〇はオランダ語で✕✕と読む。訳文は後世に託す」とぶん投げる形にしたものもあるが、そこは通詞ですら分からなかったのだから仕方ないと思う。
……というわけで、杉田さんは度々刊行の話をしているのだが、前野さんは納得出来るまで訳してから刊行すべきと言って譲らない。
「実は、知り合いの絵師に図解を描いてもらう手はずも整えておりまして」
「これはまた仕掛けの早いことで」
「以前にも申しましたが、私は多病で年も若くない。前野殿が納得出来ないのは重々承知してますが、早く世に出すべきかと。そこで、徳山殿の存念をお伺いしたく」
訳の拙さに目を瞑っても、まずはその知識を広めたい杉田さん。医学という人の命に関わる学びであればこそ、間違った訳は出せないと考える前野さん。どちらの言い分も筋は通っているが、この二つは相容れない考えなのも事実。
……どちらかに肩入れってのは難しいな。
「とりあえず私も交えて前野さんともう一度話をしましょう」
「この訳ではまだ出せませぬ」
次の読み分け会の冒頭、前野さんに刊行の話をすると、相変わらずの反応であった。
「これではまだ不十分です」
「しかし枝葉末節に拘り、多くの病に苦しむ者が救える機会を失うのは惜しい」
「逆に中途半端な出来で世に出して、間違いがあればいかがなされる」
「まあまあ、どちらの言い分も正しくござる」
言い合いが熱を帯びてくるのを見て、俺が一旦間に入り執り成しをすることにした。
「前野殿が仰ることはもっとも。精緻な訳文を作りたいのは訳者として当然」
「徳山殿!」
「まあまあ杉田殿。一刻も早く世に出して、医学の発展に寄与したいと願う貴殿の想いも分かります」
「貴殿は一体どちらの味方なのだ」
どちらの言い分も分かる。だからこそ俺としては落とし所を作りたい。
「訳はもう少し細かく読み解きたい。しかし、徒に長引かせるのも愚策。よって期限を決めましょう」
「期限?」
「それを明言するのです」
そう。何時までにこの本を刊行すると公にし、それを周囲の耳目に晒せば、無駄な長引かせは出来ない。
「本編の刊行前に世間の反応を確かめましょう」
図解とその解説は既に完了しているので、本編を出版する前にそこだけを先に世に出して、我々はこういうことをやっているんだよと知らしめるのだ。
蘭学に対する忌避感、期待感がどれくらいあるかという世間の反応を確かめるための、言わばベータ版とでも言うべき代物だ。
「刊行は来年の年明け。そこに本編を翌年には出版すると明記するのです」
ベータ版の刊行がおよそ半年後。そこに翌年に刊行すると明記すれば、現時点から見ておよそ一年半から二年は時間が取れる計算になる。最悪翌年の年末でも翌年は翌年なので、最大で二年半。今の前野さんの語学力なら、納得出来る訳文を構築するには十分な時間のはずだ。というか、納得してもらおう。
「困りましたな……」
「何も困ることはございません。今やこの国でここに居る者以上に蘭語和訳に通じた者はおらぬのですから、初見ではどこが間違いかすら分かりませんよ。それに、どうせ文句を言う輩は内容の正誤ではなく、蘭学に対して文句を言いたいだけでしょうし」
「徳山殿らしからぬ発言ですな」
いいのです。刊行の遅い早いにかかわらず、そうなるであろう未来が来ることは間違い無いし、そうならないように手を打つ段取りも進めているから。
そんなことよりも前野さんには先んじて次のステージに進んでもらわないといけない。細かいことは、この和訳書に感化されて蘭学を志した者たちが後々校正していけばいいのだ。
「医学書に限らず、読み解きたい蘭書は山ほどあります。第一人者である前野殿にはそれらを和訳していただき、次に続く者たちの道標になってもらいたい」
「……そう仰られると面映いが、徳山殿に言われると、何だかその気になってしまうな」
そうそう、前野さんには蘭書以外にも学んでもらいたいことがあるのよ。今はまだ構想段階なので口には出来ないけどね。
「それで、書名はなんといたしますか?」
「それについては杉田殿から」
「本編は"解体新書"と名付け、先行する図版は"解体約図"はいかがでしょう」
「ほう……」
話が上手く進んだようでホッとしている。というのも、これは杉田さんと事前に打ち合わせをした茶番だから。
杉田さんは元々刊行の話を再度するつもりであった。が、彼が言っても前野さんは首を縦には振らないだろうから、結局堂々巡りになる。そこで俺が一枚噛むことにしたわけだ。
絵師の手配から解体新書という書名まで、全ては杉田さんの構想どおりである。
「体を解く新しき書か……杉田殿の語彙を選ぶ感覚はやはり優れておりますな」
「そう言っていただければ有難い限り」
「では、その書名に負けぬよう、訳文も今以上に力を入れねば。何しろ締め切りを定められてしまいましたからな」
こうして、無事に刊行への道筋が開くこととなった。
◆
<一年後>
昨年の十一月、元号が明和から安永に変わり、今年は安永二(1773)年。
年の初めに刊行された「解体約図」は、大きな反響をもって受け入れられ、そこに記された本編「解体新書」への期待は俄然盛り上がりを見せていた。
我ら和訳チームも新たな面々を加えた大所帯で、期待に応えるべく精緻な訳文作りに余念のない日々を過ごしている。
そして、めでたい報告が一つ。田安家の因子様が無事男子をご出生あそばされた。三代目の誕生に宗武公も治察様もたいそうお喜びであった。
しかし、生まれてくる命もあれば、散りゆく命もまた存在する……
「面を上げよ」
「藤枝
「大儀である。教行、大納言も期待しておると聞く。しかと励めよ」
「ははっ」
徳山安十郎はこの年の初めに、四千石の旗本藤枝家に養子入りし、教行と名を改めることになったのであります。
<第二章 実録!蘭学事始・完>
◆ ◆ あとがき(2023.7.12) ◆ ◆
「旗本改革男」をお読みいただきありがとうございます。第二章本編はここまでで、残り2話、今回は宗武視点のお話と登場人物のまとめにて完結となります。
今は新しい作品にその座を明け渡してしまいましたが、歴史ジャンルの日刊~月間ランキングで1位を獲得出来たのは、ひとえに皆様の応援のおかげと感謝申し上げます。
さて、本編はようやく安十郎が史実に沿って旗本の当主となりました。ただこの方、ロクでもない死に方をしている……(気になる方はwikiで藤枝外記を検索だ!)のですが、本作ではまだまだ活躍する予定でございます。打首も切腹もしないぞ(笑)
終着点はかなり先の話となりますが、引き続きお付き合いいただければ幸いです。
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