賢七郎江戸日記
長崎屋でカピタンと面会して二月ほどが経ち、そのときの話はいつの間にか知識人階級に広まっていた。……と言っても、蘭語和訳のほうね。ロシアの話はトップシークレットなので。
なんでかと言えば、オランダ通詞の第一人者として知られる吉雄殿が、チーム解体新書の訳文の精緻さを見てたまげたから。それが人伝に伝わったようだ。
前野さんに言わせれば、まだまだ粗すぎて恥ずかしい限りとのことだが、世間から見れば、吉雄殿の感想が正確な評価であり、それを聞いた方々が次々に読み分け会に参加し始め、今ではかなりの大人数となったのである。
「で、お主はもうお役御免と?」
「そうではございませんが、たまに顔を出せば十分でしょう」
既に図解の訳文は完了し、本論も大筋は読み通せるレベルにはなった。この先はそれをどうやって日本語に落とし込むかという作業が中心になるから、そうなると基礎的な医学知識に乏しい俺の出番は少ない。
とはいえ、前野さんが訳文の校正は繰り返したいらしく、俺が全く顔を出さないとそれはそれで困ると杉田さんに泣き付かれたので、頃合いを見て顔を出している。
実を言うとそちらに注力出来ない理由が他にもあるんだ……
「何か言ったか?」
「いいえ、で、今日はどのあたりをご希望で?」
「川向こうに行ってみたいの」
「その言葉、言ってはなりませんよ賢七郎殿」
「そうであったな。肝に銘じよう」
……その理由がこの安田賢七郎殿、もとい賢丸様。
長崎屋にお忍びで行ったのが大層面白かったらしく、市井の暮らしを見るのも為政者の務めだと言って、あれ以来度々お忍びで市中を出歩いていた。
……当然、俺はそのお付きである。
ってか、お忍びで出歩くってホントにあるんだな。まあこの人はかの暴れん坊将軍の孫だ。
どこかの当主になってからは難しいだろうから、今だけの特権だ。吉宗公も将軍になってからはさすがに出歩いていないだろうし。
「では、今日は両国橋から本所に参りましょう」
「おお、そなたの家の方だな」
<本所>
「このあたりは何と言う地名じゃ」
「松坂町にございます」
「どこかで聞いたような……」
「あれです。赤穂浪士の……」
それを聞いて賢丸様がそうかと頷いた。
そうです。赤穂浪士が討ち入りした吉良邸があったところですね。
この時代では、話を室町時代のこととして、吉良上野介を高師直、浅野内匠頭を塩冶判官、大石内蔵助が大星由良助と名を変え、『仮名手本忠臣蔵』という題目で公演されているわけだが、元ネタが分からないはずもなく、本所松坂町と言えば、『ああ、討ち入りね』となるわけだ。
「こちら側に来たのは初めてだが、民が生き生きとしておるな」
「大火の被害もありませんからね」
「ちょっと返してよ! それはおっ母に渡してくれって言われてんだよ!」
「うるせー! お前みたいな貧乏人には贅沢なんだよ!」
松坂町を抜け、東西に流れる竪川に架かる三ツ目橋を南へ。街の様子を見ながら賢丸様にあれこれと案内し、菊川町の一帯に差し掛かった頃、路地裏の方で女の子の叫ぶ声がした。聞こえるに何やら揉めているような気配だ。
「安十郎、こんな真っ昼間から追い剥ぎか何かか?」
「あまり首を突っ込まない方が……」
江戸の町はこの時代にしては比較的治安が良い方ではあるが、それでも未来人の感覚でいたら、速攻で身ぐるみ剥がされるくらいには危ないところも多い。特にああいう表通りから一歩内へ入ったようなところはね。
どこで巻き込まれるか分からないから自重して欲しいところだが、賢丸様はどうにも気になるようだ。お付きの方に目配せすると、いざとなったらどうにかしますよといった感じで頷いたので、俺の後ろに付いてくるように言って声のする方に向かってみた。
「返してよ!」
「へへーん、取れるもんなら取ってみな」
そこでは種姫様よりもう少し幼いくらいの一人の町娘の周りを、これまた俺たちより少し年下くらいかと思うクソガキが取り囲んでからかっていた。
ガキどもは少女から奪ったと思われる包みを、彼女の手の届かない位置で人から人へと次々に回し、それを奪い返したい少女が右往左往している。
「武士の風上にも置けぬ……」
賢丸様の口元がグッと"へ"の字になる。それはそうだろう、ガキどもはどう見ても武士拵えをしている。旗本か御家人か、はたまたどこかの藩の者かは分からぬが、確実に武士の子供ということだ。
「おうおう、侍の子供が白昼堂々追い剥ぎとは、世も末だな」
「なんだテメエらは!」
「寄って集って幼子を苛め、あまつさえ持ち物を奪い取るとは盗人と呼ばれてもおかしくなかろう」
俺が啖呵を切ったところに賢丸様が更に煽りに入ると、ガキどもは侮辱されたと思ったのか、ワナワナと震えてこちらを睨み付ける。
……だけど、事実だからしゃーないわ。
「どこの家中の者か知らぬが、見たところどこぞの
群れの中の頭と思われるガキがそう吠えた。
何でそいつが頭かと分かったか? 着ているものが他の奴より上質そうに見えるから、そこそこの身分の家の子供なのかなと思ったまで。さらに言えば、こちらを三一呼ばわりというのは身分を傘にしてということだろう。
たしかに今日の俺と賢丸様は目立たぬよう地味な格好ではある。だが、分かる者が見たらとても丁寧に作られた地味な服である。それが分からないのはまだまだ彼が坊やだからだろう。
「ほほう……どこの家の子か知らぬが、貧しき幼子から物を奪うが是と、それが貴殿の家の家訓か? 是非ともお伺いしたいな、どこの家だ?」
「なっ……このような貧乏人が贅沢品を持っておるのがけしからんと取り上げたまで。余計なことを申すな!」
「それを世間様では泥棒って言うんだよ」
クソガキたちと対峙していたところへ響く低音ボイス。見れば通りの奥から人相の悪い……というか、明らかに漆黒のオーラを身にまとった侍がこちらに向かってきた。
あ……やべえ人に見つかったぞ、こりゃ。
「何だ貴様は!」
「……!! 若、マズイです」
若と呼ばれたボンボンはいきり立っていたが、相手が誰なのか気付いた取り巻きが慌てるように耳打ちした。すると若様、途端に顔を青くした。……だろうな、下手したら死ぬぞ。
「ほう……その様子なら俺が誰だか分かったみてえだな。で、どうやって落とし前付けんのお
男がゆっくりと近づいてくると、ガキどもはガタガタ震えている。見た感じはそれなりに身なりを整えた武家の格好だが、雰囲気がインテリヤクザのそれなんだよな。自分にそれが降りかかったら間違い無く漏らすね。
「お前らがどこの
……あー、俺のこと知ってる。そりゃ知ってるか、俺も向こうを知ってるし、なんなら顔見知りだし。
だけど人に麒麟児とか言われんの恥ずかしいわ……
「だから何だと言うのだ。俺は……」
「おっと、家名は言わねえ方が花だ。本所の麒麟児と言やあ、田安中納言様のお気に入りだぜ。そんな奴に怪我でもさせたら……な?」
なんかヤクザが優〜しく諭すと言うか脅すと言うか、とにかくそんな感じで話をすると、彼らもようやく自分たちがヤバい状況に陥っていることに気付いたようで、さらに顔を青くしている。
「とにかく、その子から取り上げた
おー怖い怖い。もう妻子もいるというのに、"本所の銕"は相変わらずの暴れっぷりでございますこと……
◆ ◆ 地名解説 ◆ ◆
松坂町…現在のJR両国駅の南側あたり。由来は近隣に松の木に縁がある町名が多かったとか、松平氏にちなんだとか、新興住宅地の本所にめでたい町名を付けたかったなど諸説あり。
竪川(たてかわ)…墨田川と横十間川を東西に結ぶ運河。現在は首都高小松川線が真上を走る。
菊川町…都営新宿線菊川駅のあたり。かつて町の近くを流れていた川が「菊川」と呼ばれていたことからその名が付いたとか。
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