世界は広い

 長崎屋では色々な収穫があった。


 まずは蘭書和訳。不明な部分について、オランダ商館の医師に話を聞くことが出来たおかげで、かなりの進捗があったようだ。


 これの多くは、漢方医学とは認識が異なる部分に関する事項や新事実が多く、どうやって和訳に落とし込むかはこれからの課題だが、その辺は意訳次第というところだろう。


 おかげで杉田さんと中川さんはホクホク顔で帰って行ったのだが、前野さんだけは浮かない顔をしていた。


 分からないことが理解出来るようになったのは僥倖だが、この先不明点があってもオランダ人を通じなければ知ることが出来ないという事実に、やや落胆していたのだと思う。


 何しろ蘭書の内容に関し、日本人で一番オランダ語を知っているはずの吉雄殿ですら、ほとんどの疑問に明確な解を出すことが出来なかったのだ。


 会話という点では彼ら通詞が一枚も二枚も上手であろうが、和訳、こと医学書のそれに関して言えば、俺たちチーム解体新書の語彙力は彼らを凌いでいるということにほかならない。


 他人を当てにすることの出来ない課題ではあったが、それでもオランダ通詞なら知っていることがあるだろうと思っていたものが、フタを開けてみれば俺たちの方が読み解けると分かったんだ。もう誰にも頼ることが出来ないと改めて感じたのだと思う。




 そして俺と賢丸様はというと、フェイト氏から海の向こうの動きをこれでもかと教示された。


 大航海時代から続く拡張の歴史。その波がこの日本にも、確実に押し寄せようとしている。それは以前、俺が田安邸で話した内容をさらに具体化したものであった。


 俺が話した内容は未来の知識で知る事実に沿ったものだったが、安十郎としての俺の口から言う以上、推論だとしか言えなかった。だが、外の世界を知るフェイト氏の口からそれを聞けば、賢丸様もそれが容易ならざる事実なのだと認めざるを得ないようだ。


「安十郎」

「何でございましょう」

「カピタンの話、真であろうか」


 フェイト氏はしきりにロシアの脅威を唱えていた。アフリカを回ることなくアジアへ到達できるヨーロッパで唯一の国であり、かつ、日本人が半ば当たり前に考えていた、「西洋人は南から海を渡ってやって来る」という常識を、全く真逆の方向から否定する国だ。


 これまで海外との関わりは南や西にばかり目を向け、北方はおざなりどころか、なおざりと言ってもいいであろう状況でロシアが来ればどうなるか。フェイト氏の言いたいことはその一点に集約されていた。


「カピタンの言を借りれば、どうにもロシアとは粗暴な国のように思える。これまでも現地の者を征服して領土を拡大しているのであろう」


 賢丸様の懸念はもっともである。これまで侵略を続けていた国が、この国に対してだけ態度を翻して仲良くしましょうと言ってくる画は浮かびにくい。


「その点についてはカピタン殿の言に賛同する部分もございますが、半分は本当で半分は誇張であるかと思います」

「何故そう思う」

「彼らは幕臣でも、ましてやこの国の民でもございません。彼らの本質は、あくまで己のために利を求める商人にございます」


 カピタンは賢者でも聖人君子でもない、世界の中では数多くいる船乗り商人の一人に過ぎない。出島だって、言ってみればオランダ東インド会社の一支店である。


 そこの長というのなら、未来で言えば支店長、本社待遇でも係長か課長くらいの役職ではないかと思う。オランダの中では決して高い身分ではない一市民だろう。


 それでもこの国の誰よりも西洋の事情に明るいから、知識人のようなイメージはあるが、彼らもそこまでロシアのことに精通しているわけではないはず。その助言にはこの国のことを思う気持ちのほかに、それがオランダ、自分たちにどういう影響を与えるか加味した言葉だと、多少の割引されたものと考えるべきだ。


 日本との貿易は、オランダ東インド会社の中でそれほどシェアの大きいものではなかったと聞いたことがある。それでも彼らがこの国と貿易を続けるのは、対日貿易が彼らの独占であり、継続することが得策だと考えていたからだと思う。


 そして今、貿易のテコ入れを行おうとする老中田沼意次が現われ、多少明るい兆しが見えてきたところにロシアが現われるとなると、オランダにとっては危機感を抱かざるを得ないはず。


 バタヴィアから長崎、シベリアから北海道では航海する距離が違う。しかもロシア側が望む物は金銀財宝よりも食料や日用品など、シベリアで調達しにくい物品である可能性が高い。北方での貿易が活発化すれば、オランダにとって死活問題と言える。


 だからロシアは危ない、我々は安全だと強調し、近づかないように釘を刺す思惑もあったのではないかと思う。




「つまりカピタンは、己の利権を守るためにロシアの脅威を誇張したと?」

「そう思います。もっとも、その根底にはロシアが油断ならない相手であるという事実があって、その上での警告であると思いますので、無碍には出来ません」


 半分はフェイト氏の誇張であるにしても、火の無いところに……というやつだ。彼は商人であるからこそ、己の利益を第一に優先するが、一方で取引相手である日本人に対して少なからぬ友誼を感じており、少し厳しい言い方でないと我らが話を聞かないだろうと思っての発言だったのだと思う。


 たしかにロシアが虎視眈々とアジア進出を企んでいたのは、後の歴史が証明している。不凍港を求めて南下政策を推し進めると共に、アジアから太平洋側に直接出ようともしていた。


 それを警戒した米英が日本を焚き付けてロシアとガチバトルさせたわけだし、その前段であった樺太千島交換条約というのも、千島列島を日本領とすることで、ロシアが太平洋に容易に出られない環境を作るというイギリスの思惑もあったらしいし。


「ロシアと付き合うにしろ、対峙するにしろ、蝦夷地の支配権はもっと明確にすべきであることはフェイト氏の言葉に賛同します」

「蝦夷地か……」


 長崎は既に仕組みが出来ており、これ以上の統制を強いらずとも、オランダが無体な真似をするとは思えないし、イギリスもそう簡単に侵入は出来ないだろう。となれば今、目を向けるは北方。それは間違いだろうな。


「しかし、松前が何と言うかのう」

「フェイト氏の言葉を聞くに、ロシア人が蝦夷地に足を踏み入れている可能性は十分にありますから、御公儀の手で調べを進める必要があるかと。それでもし、アイヌがロシアと接触しているのを知りながら、松前が偽りを申しているようであれば……」

「領地を召し上げるか……安十郎にしては随分と過激な発言だな。お前はもう少しやんわりと事を進めるかと思ったが」

「松前の報告が嘘偽り無ければ問題ない話でしょう」


 ……とは言うが、フェイト氏の言葉を聞くに、今の時点で限りなく黒に近いグレーだろうなとは思っている。


 世界は広い。我々はそれに対するにあまりにも知識も経験も無く、備えも薄い。まずは出来るところから確実に潰していくしかないだろう。


「相分かった。今の話、屋敷に戻って父上や兄上にも報告せねば」

「それは私も一緒……にでしょうか?」

「お主がおらねば始まらんだろ」

「ですよねー」


 ……今日も田安邸で缶詰めだなこりゃ。




「いやしかし、知らぬことを見聞するというのはためになるの」

「そうですね。ただ、私が今日一番驚いたのは……」


 商館長カピタンアレント・ウィレム・フェイト、御年27歳だということだ……


「たしかに……」

「あの貫禄で三十手前なんて詐欺ですよ」


 うん、世界は広いね。

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