あな、おそロシア

〈前書き〉


引き続き、『 』内のセリフはオランダ語による発言となりますが、安十郎たちは内容を全部理解出来ているわけではないので、通詞経由で伝えられたものと考えてお読みください。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「我が国に波が押し寄せてまいる……つまり、攻め込んでくる国があると?」


 フェイト氏の言葉に賢丸様が反応する。


 外の世界を実際に見ていない(ということになっている)俺の言葉では、どうしても推測の域を脱しないものであるが、それがカピタンの言葉となると、俄然現実味を帯びて聞こえるのかもしれない。


『私が懸念しているのは、この国の北に点在する島々のことです』


 日本の北にある島……蝦夷地のことだろうか。


『このままではモスコヴィアに奪われますぞ』

「吉雄殿、モスコヴィアとは?」

「オランダの北東に位置する大国だそうです」


 吉雄殿の言葉を待ってから、フェイト氏が広げたヨーロッパ地図の一点を指し示すと、そこにはMoscoviaという国名が記されていた。


 未来の世界地図に比べ正確性は劣るものの、見る限りそれはロシアのことであろう。スペルは全然違うが、この時代の西洋ではロシアをそう呼んでいるらしい。


 字面から考えると、それはもしかしたらモスクワのことなのかもしれない。元々モスクワ大公国と呼ばれていた国だし、未だにその名残が残っていると考えればあり得る話だな。


『彼らは東へ東へと領土を拡張しています』


 ロシアの主要な輸出品は動物の毛皮。これらを西欧諸国に売って収益としていたわけだが、乱獲により動物の数が減ってくると、毛皮を求めて次第に東へと進んできたらしい。


 当然そこには現地の人が治める国やコミュニティがあったのだが、それを武力によって併合していった。そういえば、なんとかハン国とかが征服されたみたいな歴史があったな。コサックがその役割に大きく貢献したとか。


 こうして中央アジアの各国を支配しながらロシアが進んだ先は清国。さすがにこれと本気でぶつかるわけにもいかず、両国の国境線を確定する条約を結ぶと、それ以上南下出来なくなったロシアが選んだのは、さらに北東へと進む道であった。


 それによってロシアのシベリア支配は進み、現時点でユーラシアの東端、そしてカムチャツカ半島までその勢力は及んでいるらしい。




「ロシア人が既に蝦夷地に足を踏み入れている可能性は?」

『既に彼らは海を越え、アメリカ側に足を踏み入れたとも聞きます。確証はありませんが、蝦夷地に来ている可能性は高いでしょう』


 今から数十年前、ロシア人のベーリングという冒険家が、カムチャツカ半島から出港し、シベリアとその先の大陸、つまりアメリカとは海峡を隔てて地続きでは無いことを発見したそうだ。


 だからあそこは未来ではベーリング海、ベーリング海峡と呼ばれるのか。納得。


 そう言われてみると、アメリカの拡大の歴史かなんかで、アラスカは元々ロシア領だったものをアメリカが買い取ったというのを学んだ記憶がある。つまりこのくらいの時代から、ロシア人がアラスカまで進出していたということなのだと思う。


 ……ってことは、こちらにその手が及んでくるのも時間の問題。というか、既に来ている可能性が高いか。アラスカよりこっちの方が近いしな。


 ちなみに言うと、未来の認識では=北海道というイメージが強い蝦夷地という名称だが、この時代は北海道本島のみならず、千島列島や樺太を含めて蝦夷地であり、太平洋側と千島列島を東蝦夷、日本海側と樺太を西蝦夷と呼んでいるから、フェイト氏が言うロシア人の蝦夷地上陸というのが北海道本島のことであるかは不明だ。


「しかし、蝦夷地を管理する松前藩からそのような報告は聞いたことがない」


 そしてその蝦夷地は松前藩が支配権、交易権を幕府から公認されて統治を担っている。公式ルートの話であれば、たしかに賢丸様の仰るように接触した形跡は無い。


『絶対にそうと言い切れますか?』

「それは……」


 しかし、フェイト氏の言葉に明確に返すことが出来ないのは、確実に管理しきれているとは言い難いから。


 支配権を認められているとはいえ、実際にこの国の領土として明確に収まっているのは、松前とその周辺くらいで、それ以外は実質アイヌが昔ながらの営みを続ける地であり、各地で運上屋を通じた交易で日本人が姿を見せることはあるものの、直接彼らを主権下で統治しているかと言われると、微妙な部分も多い。


 それに、アイヌの人たち全員に、「お前、ロシア人と会ったことある?」なんて聞いたわけではなかろう。仮に調べていたとしても、アイヌの人たちだって馬鹿正直に言ったら何をされるか分からないから、「うん、会ったことあるよ」とは答えないだろうし。


『明確に主権を主張しなければ、危ないと思います』


 フェイト氏の言葉は、そこに確たる主権国家が存在しなければ、易々とロシア人に征服されてしまうと言いたいのだろう。蝦夷地は確実にこの国の支配が及んでいるとは言い難い現状であり、モタモタしていれば北海道本島まで奪い取られると警告しているのだと思う。




『昨年の夏、シベリアからこの国に船がまいりました。その際、我々出島のオランダ商館に手紙が届きました』


 ……あれ? それってもしかして。


「安十郎。もしかして、はんべんごろうのことでは?」

「おそらく」

『その通り。手紙を訳した者が名前を間違ったようでね、江戸には"ファン・ベンゴロ"と伝わったみたいだが、正確にはモーリツ・フォン・ベニョヴスキーと言う男です』


 ……フォンってのはドイツの貴族なんかに付く名前だよな。ドイツ人? なんでシベリアから?


『おそらく経歴を偽っているのだとは思いますが』


 ……経歴詐称かい。こっちが相手のことをよく知らないからと、身分を高く見せようとしたのか。と言っても、日本人は西洋の身分形態なんて知らないんだから、何の意味も持たない行為だな。互いに互いのことを知らないと、そういう齟齬が発生するんだな。


「昨年からみた来年、つまり今年、ロシアが蝦夷地に攻めて来ると」

『そうですね。手紙ではそう警告しています』

「フェイト殿はそれが真か否か、どうお考えか」

『おそらくデタラメでしょう。既に要塞を築いているなど、内容があまりにも突飛すぎて信じるに値しない』


 そうか……やはりガセネタだったか。


『しかし、絶対とは言い切れません』


 攻めて来る可能性はないだろうと言うフェイト氏の言葉に、ひとまず安堵の表情を浮かべた俺と賢丸様だったが、続く言葉に再び色を失う。


 曰く、ヨーロッパの国々は長い航海の末に見つけた新たな土地を次々と自分の領土とし続けている。仮に現地民の抵抗があれば武力で排除しようとも。


 アフリカ、アメリカ、そしてアジア。そのアジアの中でも、最もヨーロッパから遠いであろうこの国にもそれは迫っているのだと。


『先程のお話でお分かりのとおり、この国から一番近いヨーロッパはモスコヴィアです。ベニョヴスキー然り、貴方たちが目にしていないだけで、他にも多くの船がこの国の近くまで来ていることでしょう』


 ……そう言われれば、元文の時代にロシア船が来ているのだ。それから数十年、一隻も来ないという可能性は低い。


『残念ながらこの国の偉い方は、出島だけを窓口とお考えのようだが、今一番警戒すべきは北、モスコヴィアでございますぞ』

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