大通詞がナンボのもんじゃい!

〈前書き〉


本話で『 』内のセリフはオランダ語による発言となります。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆




「前野殿、久しぶりにございますな」

「吉雄殿もご健勝でなによりにございます」


 長崎屋に入ると、今回の江戸参府に同行した通詞である吉雄幸左衛門殿が出迎えに来ていた。


 通詞にもランクのようなものがあるらしく、カピタンに従って江戸に赴く通詞は、通訳で齟齬があってはマズイので一番上級の者が交代で務めているらしい。


 そして今回その役に就いた吉雄殿は今いる長崎通詞の中でも大通詞を務める一番の実力者であり、通詞のかたわらオランダから伝わった医学をはじめとする様々な学問を修めているそうで、実は俺の師匠である昆陽先生も、そして前野さんも彼からオランダ語を習っていたのだ。

 

 ……だったら貴方が蘭書を訳せばいいんじゃね? と思うのだが、蘭語和訳はとても労力が要る。自分がやっているから良く分かる。


 かつて、西善三郎という通詞の方がいて、オランダ語の辞書の和訳、言うなれば蘭日辞典を作ろうとしたらしいが、編纂中にお亡くなりになったそうで、その後手付かずなのだとか。


 まあ……オランダ人が目の前にいて話す能力があれば、直接聞けばいいんだし、下手に和訳に手を出して誤訳に気付かれれば自身の名折れになると恐れて、誰も手を出そうとしなかったというのが真相のようだが……さて、吉雄殿の実力はどんなものかね。




「さて、それで本日はいかなる御用向きで」

「実は長崎で手に入れた例の蘭書を和訳しておりまして、吉雄殿に校閲していただきたく」

「蘭書の……和訳ですと!?」


 前野さんがおずおずと切り出した言葉に、吉雄殿は想像もしていなかったようで言葉を失っている。


 ……ただ、それはとても困難なことに挑む者に対する憧憬というより、「は? 何言ってんだコイツ」みたいな若干呆れたような視線だ。


「……前野殿、たしかに貴方が長崎にいらっしゃったときの語学力に驚きはいたしましたが、それでも我ら通詞とは比べるべくもなかったのですよ。その我らですら、文章を読み解くは容易ではございません。如何にして蘭書を読み解こうと仰せなのか。杉田殿とて、かつて西先生に諭されたと聞きますが」

「杉田殿、そうなのですか?」

「お恥ずかしい話ですが……」


 実は数年前、杉田さんは生前の西さんがカピタン付きの通詞として江戸に来たときに面会したそうで、そのときに蘭語和訳の困難さを滾々と説かれ、一度はオランダ語習得を諦めたらしい。


 たしかに和訳をしていても一人だけ蘭語理解の進度が遅いようなので、向き不向きを見極めたという意味では正解だったのかもしれない。


 だけど……だからと言ってそんな言い方はないだろう。ちょっとムカつくわ。


「かつて青木殿も長崎まで参られ、色々と尋ねられはしましたが、あまりはかばかしくはありませんでしたな。今日の御用向きも我らに読めぬ文を訳してくれと、そういういうことでよろしいか?」


 あ……このヤロー、俺の師匠まで馬鹿にしやがった。大通詞だかなんだか知らねえが、言っていいことと悪いことがあるだろうが……


「まあまあ、学ぶ意思があるというのは良いことです。我らが江戸にいるうちに少しでも多くの……」

『クソ野郎……』

「……!! 今、何と仰った!」


 あまりに頭にきたので、オランダ語で罵倒してやった。発音が正しいか自信は無かったが、吉雄殿がそれに反応したということは、どうやら通じたようだ。そして、前野さんも目を見開いてこっちを見ているから、俺が何を言ったのかは理解しているね。


「あ、安十郎? 今のは……」

「ええ、オランダ語でちょいと罵倒してやったんです」

「これは面白い。何をもって某をそのように仰せか」

「教えを請いに頭を下げてきた者に対し、吉雄殿はいつもその様な態度で接しておられるのか? それが教え導く者の姿勢であるとお考えなら、馬鹿も馬鹿、大馬鹿者。罵倒したくもなります」


 たしかに昆陽先生は何も知らぬところから教えてくれという状態だっただろうから、教える方も面倒だったかもしれない。


 だけど藁にも縋る想いで来た者に対しあまりの言い様だ。今日は訳してみた文が正しいかどうかを判定してくれと申し出ているんだから、読んでから判定しても遅くはなかろうに。


「本当は前野殿は来たくなかったんです」

「徳山殿、それは……」

「本当は拙い訳文を大通詞である吉雄殿に見せるは忍びないと。それでも、この蘭書の和訳が我が国の医学の進歩に役立つならと、恥を忍んで校閲をお願いしているのです。馬鹿にするなら、せめて訳文を見てからにしていただきたい」


 見てから馬鹿にされても気持ちの良いものではないが、こちらは教えを請う側だ。多少の恥辱は我慢できるさ。


 だけど見もしないで、どうせ出来るわけがないと言われるのは心外だと抗議した。俺がオランダ語で罵ったのも、こちらの習熟度を示すため、そして小僧の戯れ言と一笑に付されぬため。そのおかげか、吉雄殿も自身の発言の拙さに気付いたようだ。


「……君の言うとおりだ。あまりにも突拍子もない話ゆえ、少々口が滑ったようだ。ご容赦願いたい」

「では、吉雄殿……」

「ええ、前野殿や皆様の力作、とくと拝見いたそう」




……


…………


………………




 それからどれくらい時間が経っただろうか。吉雄殿は蘭書の本文と、我らの訳文を見比べては唸り、また見比べては頭を捻り、遂にはため息混じりで書を机に戻した。


 まだ訳が足りなかったか……?


「前野殿」

「はい」

「お見事でござる」


 吉雄殿が机に手を付いて頭を下げた。長崎の大通詞――おそらく日本人で一二を争うオランダ語のエキスパートが訳文の出来映えを認めた瞬間である。


 曰く、自身の文章読解力をもってしてもこれ以上の訳は作れないと。


「いや、恐れ入った。これほど精緻な訳文が江戸で作られていたとは……前野殿、お見事でござる」

「いや、こちらの徳山殿のおかげです」

「そうか……君が徳山殿か。前野殿から話は聞いていたが、まさか本当に年端もいかぬ少年だったとは……」


 ああ、そういえば長崎で誰にオランダ語を教わったのかと聞かれて、俺に教わったと前野さんが言っていたらしいな。


 本当に子供だったと知って、吉雄殿が驚いているところを見ると、話半分で聞いていたんだろう。


「徳山殿、無礼なことを申した。改めてお詫びいたす」

「いえ、こちらもカッとなって失礼なことを申しました」

「しかし、どこで教わったかは分かりませぬが、その言葉、オランダ人には言ってはなりませんよ」

「肝に銘じておきます」


 吉雄殿が頭を下げてきたので、お互い様とこちらも頭を下げ、そこからは分からない文章についての質問攻めが始まったのだが、解読不明な単語については、吉雄殿の知識でも判別出来るものはほとんど無いらしい。


「我らは日常会話であればそれなりに知っておるが、医学用語となるとな……」


 オランダ人に医学を教わってはいるが、厳密に言えば吉雄殿は医者ではないから、専門用語は疎いようだ。そりゃそうだよな。




『吉雄さーん、オランダ語が聞こえたようだけど?』

『ダメですよ。勝手に部屋を出ては』

『堅苦しいことを言うなよ。そんなんだからクソ野郎とか言われるんだよ』


 吉雄殿を中心に議論をしていたら、奥の部屋から現れた一人の男性……not日本人。つーか、クソ野郎って単語が耳に入ったな。聞いてたんかい。


「吉雄殿、こちらは……」

「ええ、カピタンのフェイト殿にござる」

『ホーイ、フェイトだよ。ヨロシク』


 随分と陽気なオッサンだことで……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る