白き毒と紅蓮の脅威
――明和九年二月二十九日(1772年4月1日)
「白粉が……毒なのですか」
「正確には白粉に使われている鉛白が危のうございます」
正月明けに前野さんたちに依頼したものの結果をまとめ、通子様や因子様など、田安家の皆様に鉛白を使った白粉の危険性について説明を始めると、皆一同に信じられないものをみたような顔をしていた。
「皆様は鉛白の実物をご覧になったことがございますでしょうか」
「いえ……出来上がった白粉でしか見たことは」
「こちらが鉛白、そしてその元となる鉛板にございます」
危険性を説明するために、事前に用意した鉛白を手に取り、カリカリと削り取って見せる。
「これを元に白粉は作られるのです」
「しかし、真に毒なのでありますか」
「元がこの鉛でございますれば、これを口の中に入れようと思われますでしょうか」
「そう言われると、あまり身体には良くなさそうですね」
「鉛白を塗ることの危険性は二点ございます」
一つ目は塗っている女性本人への影響。膏薬などにより、肌から薬効が染み込むことは誰もが承知している話なので、逆にそれが毒物であってもその効果が体内に取り込まれると説明すれば、それを否定する声は出てこない。
「このことにより毒素が体内に蓄積され続けると、身体に異常をきたす可能性が高くなります」
「その異常とはいかなるものか」
「多くは臓器の不良による体調の悪化や慢性的な手足の痺れなどが見られます」
そして二つ目、こちらの方がより問題なのだが、子供に対する影響だ。
女性は白粉を首筋から胸元まで塗っている。そのため、赤ん坊がお乳を飲むため乳房の周りを舐めると、自然と口の中に鉛白が取り込まれてしまうのである。
「口から直接取り込む場合、さらに悪い影響が出ます。また母の体内に鉛の毒素が溜まっておれば、腹の中にいるうちから栄養と共にその毒素まで渡され、生まれながらに鉛の毒に冒されていることになります」
大人になってからの中毒は症状が出ないものも多いし、出ても軽症であることがほとんどだが、子供の場合最初から脳に障害を持ったり、臓器に障害を持ったりするため、多病になることが多いようだ。
「元より赤子は身体が弱いもの。一つ病を得ただけでも大事に至りますのに、それが身体の中に溜まっているとなれば……」
「亡くなる子供が多いのは……」
「それだけが原因ではないでしょうが、小さいうちに命を落とす一因ではあるかと」
「それは……どのようにして調べたのでしょう」
今までそのようなことを考えた者がいないのだから、通子様が疑問に思うのはもっともだ。だから俺はその根拠となるものをこの二ヶ月弱調べていたのだ。
「蘭書和訳に携わる医師たちに頼んで、死因を調べてもらいました」
杉田さんと中川さんが持つ医師同士の交友関係を用いて、白粉を普段から常用する者、例えば歌舞伎役者、吉原の芸者や遊女、そして大名旗本などの奥方たち。これらの病歴や死因などを調べてもらったんだ。前野さんは……ああいう方だからあまり交友関係が広くないのよね。しかも先日娘さんが亡くなってしまって、それどころじゃなかったんだ。
結果、似たような症状に悩まされる者が少なからずいたこと、そして大名旗本などの奥方たちから生まれた子の死因にも鉛中毒と思しき症例が、白粉をそれほど使用しない庶民に比べて比率が高かったことが数字で証明されたのだ。
「無論全てが鉛のせいだとは言い切れませんが、これだけ似た症例があるとなると、そう考えてもおかしくはありません」
「……まさか、兄上もそうだったのだろうか」
宗武公が呟いた兄上とは、九代将軍家重公のことである。
俺も聞いただけの話だが、家重公は生来虚弱の上、言語が不明瞭なせいで、その言葉を解すのが幼い頃から近侍していた、ごく僅かの家臣のみだったという。だからこそ壮健であった宗武公を後継者にと推す声があったわけだしね。
虚弱体質に言語障害となると、鉛かどうかはともかく、中毒症状による障害だという可能性は否定できないな。
「鉛白の使用を止めれば防げるのか」
「それが出来れば最上にございますが、公の場では白粉を使わぬというわけにはいかないでしょう。ですから、せめて鉛白の入っていないものを使うこと。そして赤子に乳を与えるときに決して白粉を塗らぬこと。全部とは申せませぬが、これだけでも改善は出来るかと」
「鉛白の入った白粉は使い勝手が良いのだがのう」
「そうは申しても死ぬよりは良かろう」
こうして田安家では鉛白不使用の白粉のみを使うことが決定した。
「安十郎様」
鉛白の話が終わり、種姫様が俺の戻りを待ちかねていたかのように姿を見せた。
「姫様、いかがなさいましたか」
「安十郎様が白粉を使うのを止めるよう進言したと聞きまして」
「えーと、白粉は使いますよ」
あくまで鉛白を使ったものがダメなのだと言うと、姫様はあからさまにガッカリした様子である。
「えー、白粉を塗るのは嫌なのです」
姫様はまだ幼いこともあってあまり化粧をする機会は無いようだが、白粉を塗るときは息苦しくてたまらないのだと言う。
まあ……あれだけ塗りたくったら、毛穴が呼吸できなさそうだもんね。
「化粧をするのは苦手なのです」
「姫様は化粧など無くとも十分に白くてお綺麗でいらっしゃいますからね」
「……今、何と仰いました?」
ん? お世辞だよ。
「もう一度お聞かせ下さいな」
「姫様は化粧など無くとも十分に白くてお綺麗ですよ」
「も、も、もう~、安十郎様ったら口がお上手ですわ」
直接の主従関係ではないが宗武公は俺の主みたいなものだ。その娘に対してお世辞を言うくらい、口の上手い下手にかかわらずやると思いますが?
まあ……姫様はかわいいからお世辞ではなく、本当にそう思っていますけどね。
「も、もう一度」
「姫様はお綺麗ですよ」
「フフ……ウフフ……安十郎そう思ってくださるのですね」
姫様が顔を赤くしてクネクネしている。
えーと、人の腰を指でつついてグリグリしないでもらえませんかね……
――カンカンカンカンカンカン!!!!
種姫様がモジモジしながら俺に本を読んでもらえないかと言うので、それに従って部屋に向かおうとしたら、遠くから半鐘が激しく乱打される音が聞こえてきた。
早鐘……火事か。
「火事……でしょうか」
「その様ですな」
屋敷の外に目をやると、南の空が赤く燃え上がっているのが見える。
……城の向こう側のようだが、空が随分と赤い。結構近いのか。
「安十郎!」
「賢丸様、いかがなされました」
「大火事じゃ。城の南側が火の海だ!」
「……! これか……」
外で響き渡る早鐘に騒然とする邸内。そのときようやく思い出した。
明和の大火、別名・目黒行人坂の大火。
江戸時代でも最大級の火災であった明暦の大火、そしてこれより後に起こる文化の大火と並ぶ江戸三大大火と呼ばれるものの一つであり、その災禍により
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