美人薄命の原因?
「……という次第にて」
「田安公のお墨付き、心強いですな」
年が明けて明和九(1772)年。ここ数年は比較的世情も落ち着いてはいるものの、世間では語呂合わせで「迷惑な年」にならなければ……なんてブラックジョークも飛び交っている。そんな中、タブラエ・アナトミカの翻訳は今年最初の読み分け会が始まったところだ。
その冒頭で宗武公に、「一日も早い蘭語和訳の成就を期待する」と有難き言葉をいただいたことを三人に伝えると、皆感激しているようであった。
(だけど……迷惑な年って聞いたことあるんだよな。何かが起きて本当に迷惑な年になったような記憶があるんだけど……何があったんだっけ? 思い出せない……)
「徳山殿、それで公から褒美にとそれを賜ったのですか?」
「え? あ、ええ、この扇子を拝領いたしました(パサッ)」
「はっ……ははーっ」
ん? 俺が扇子を広げたら、三人が平伏しているのだが?
「徳山殿、それ、閉じて……」
前野さんが恐る恐る言うので、"あっ"と気づいた。扇子に記されていた、未来人にもおなじみのあの御紋に平伏しているんですね。
あれだ、「ええーい、頭がたかーい! 控えおろう!」って、助さんだか格さんだかが高々と掲げるのと同じアレですわ。
あの日、家に帰ってから貰ったのを報告してブツを確認したら、親父殿がビックリ仰天で平伏してしまい、「それを不必要に見せてはならん!」と厳命されていたんだが、ボケっとして言われるままに見せてしまった。ちょっと反省。
「前野殿、これはすごいことですよ」
「そうだな。将軍家ご一門が我らに期待を……」
「それだけではございません。蘭書和訳がお咎めを受ける可能性が少なくなったのです」
杉田さんが不安視していたのは、蘭書和訳が法に触れないかということ。
何しろ海外事情は公儀の秘匿情報だ。吉宗公の命だと言っても当の本人が亡くなっているわけで、これを和訳して巷間に流布するとなれば、そのときの法の番人の解釈次第では罰せられる危険性が十分にある。宗武公のお墨付きには、それを打ち消すための十分な効力があると言えよう。
おそらく公は、あのときストレスのことを仰っていた。蘭学の有用性を疑問視する漢方医、その他大勢の外野から投げかけられる要らぬ声に俺たちが邪魔されないよう、自分が後ろにいると明確に示してくださったのだと思う。有難い話だ。
この流れなら、あの話を聞けるかな? 宗武公の頼みとあれば断ることも出来ないだろうし、一応三人共医者だから何か知ってることがあれば……
「実はそれでお三方にお伺いしたいことが…………」
「稚児を授かるには……ですか」
「難しい質問ですね……」
俺は妊娠とか出産に関する知識は持ち合わせていないので、医師である彼らの知見を頼ろうと思ったが、この時代の産科はいわゆる産婆さんが扱うもので、三人の話から医学としては未発達の分野ということが分かった。
一応妊娠しやすいという方法は聞いたが、どうにもこの時代によくあるオカルト的な民間療法の域を脱しないものであり、それならばおそらく因子様も試しているだろうから、あまり役には立ちそうにないな。
「ではもう一つ質問を。女子は何故化粧をするのでしょうか?」
「化粧ですか? それはまあ……美しく見られたいというのは女子なら誰しもそう思うのではないでしょうか」
「ええ、それは分かるのですが、あそこまで白粉で塗りたくる必要性なのです」
そっち方面では貢献できそうにないことが分かったので、次に普段の生活においてストレスが軽減出来ないものかと思い、化粧のことに質問を転換してみた。
女性にとって化粧は身だしなみというのは分かるが、この時代ほどの厚化粧ではない未来においても、化粧というのはとても手間のかかるものであり、会社で女性社員と話になったときも、誰とも会わないのであればスッピンでいる方が楽に決まっていると断言された。
よって、あの化粧をしなくてもいいのであれば気が楽なのではと思ったのだが、皆さんの意見を聞くと、この時代の色白信仰はほぼ絶対のように感じるので、中々難しいところなのかな……
「あの白粉でないとダメなんですかね」
「"はふに"は安価な上にのびがよくて落ちにくいですからな」
「はふに?」
全く知識がなかったので杉田さんに聞いてみると、白粉の原料というのは色々あるそうで、昔は水銀から出来た軽粉というのもあったらしいが、今は清国から入ってきた"はふに"と呼ばれる鉛から出来た粉、鉛白というものが主流なのだそうである。
なんでも……酢を入れた鍋の上に鉛板を並べて樽形の容器で全体を覆い、鍋の下から炭火で長いこと加熱するすると鉛板の表面が白く変化するのだとか。それを粉にして白粉に使っているらしい。酢で酸化させているということなのだろうか。
……って、鉛って危険じゃね? 酸化しているとはいえ鉛は鉛だよな。
「危なくはありませんか」
「そうですかね?」
「ですが、鉛の欠片や削りカスを毎日食べられますか?」
「それは……たしかに嫌ですな」
「だが、塗るだけで口にしているわけではござらぬ」
「膏薬のように肌から薬効を染み込ませる療法があるのです。それが毒物であれば、同じように毒素が肌を通して体内に取り込まれるのではないでしょうか」
「そう言われればその通りですね」
世の中には必要なミネラルってものはあるが、それは食品中に自然に含まれるものを摂取すればいいわけで、必要以上に摂取すれば毒になる。鉄分が足りないから鉄粉を直に食うのか? ミネラル補給のために亜鉛を塊で食うのか? という話だ。俺は食べたくない。
まして鉛は亜鉛とは似て非なるもので、完全に有害だったはず。元素記号はPbとZnだったかな。どっちがどっちか忘れたけど、そんなものを肌に塗りつけていたらデトックスが追いつかず、体内に有害物質が溜まり続ける一方だろう。
無論、鉛や水銀などの有害物質は自然界に普通に存在する。ただ摂取量が人体に影響を及ぼさない量であり、適切に排出出来る量しか存在しないから問題ないだけで、足尾銅山や水俣病などの公害も、自然界における摂取と排出のバランスを人為的に崩壊させてしまったから発生したのだ。
明治や昭和の時代ですらその原因を掴むのに時間がかかったのだから、江戸の世でそれを理解しろと言う方が難しいのは良く分かる。
……だけど、分かっていてそれを防がないというのでは、俺がこの時代に生きる意味がないだろう。
もしかしたら、子供の生存率が低かったり、五体満足に生まれなかったりすることが多いのは、母胎にそうやって毒素が溜まっていることも原因かもしれないし。
美人薄命って実はこれも原因だったりして……もう少し確証が欲しいところだな。
「和訳でお忙しいところ申し訳ないのですが、皆様に調べていただきたいことがございます」
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