穢れを避けるか忠孝を取るか

「辰丸、お客人の前で無礼であろう」

「客人? 我が弟に畜生の肉を平気で食らわせ、百姓がごとき飯を食わせる者が、でございますか?」


 田安家で夕食をご馳走になっていたところ、辰丸様のご機嫌がすこぶる悪くなった。


 それを治察様が咎めるが、辰丸様は弟君が唯々諾々と肉食や玄米食を受け入れているのが許せない、見ていられないと言う。


 それだけ聞けば弟想いの兄だが、憎々しげにこちらへ向ける視線を見れば、単に俺と賢丸様が楽しげなのが面白くないのだろう。肉食や玄米食のくだりにしても、妄言にたぶらかされる愚かな弟と貶めたい意図しか感じられない。


 だけどさあ……玄米食は俺の進言だけど、肉食は知らんよ。それはアンタの父上が用意した物だぜ。まとめて俺のせいにするなよ。




「兄上は客人と仰せだが、当家の権威を貶めんとする奸賊の間違いでは?」

「辰丸!」

「治察、構わぬ。辰丸、そこまで言うからは何か根拠があってのことであろうな」

「……肉食は穢れの元であり、殺生を禁じる仏の教えにも反します。薬と称すは詭弁もよいところ。そして玄米は百姓の食すもの。将軍家ご一門の我らが食べるは憚るべきです」

「左様か。安十郎、我が息子はこう申しておるが、何か反論はあるか」


 宗武公が辰丸様の言い分を聞き、俺に反証してこいと言う。ただ、その顔は息子を納得させよというより、どうやって論破するかを面白がっているように見える。


「されば……唐の国には『薬食同源』、日頃から色々な食材を食すことで、病気は予防・治療出来るとする考え方があり、書物にも肉や玄米の効用が記されております。また面白いことに、オランダでも同様の考えがあるそうで、これが理に適うことは共通の考えなのかと」

「肉を食べねば生き長らえぬなど、不出来の謗りは免れぬ」

「左様でございましょうか。論語の為政第二には、『父母唯其疾之憂』とあります。つまり、両親はただただ自分の子供の病気のことばかり心配するもの。よって子供は親の心にそって自分の健康に留意するべきとありますので、病だからと座して死を待つは不孝者であり、さらには上様の御為に働く意思も無き不忠者と誹られましょう」


 読んでて良かった孔子の論語。この時代では必須科目だから真面目に読んだけど、こういう形で役に立つとは思わなかった。孝に加えて忠を持ち出せば、武士階級はぐうの音も出ないはずで、辰丸様の反論は次第にトーンダウンしてきた。


「……だが、仏法に反すれば仏罰が下る。それで身を滅ぼせば、それも不忠であり不孝であろう」


 なるほどそうきましたか。仏罰が下ればですけどね。


「江戸に住む者は武士も町人も、ほとんどの者が肉を薬として食しております。さすればこの町に暮らす者は皆、穢れ持ちとなりますな。されど、仏罰は未だに下っておらぬ様子にございますが」

「そうじゃな。肉を食したら罰を受けるとなれば、余もとうの昔に受けていなければおかしいの。上様もお召し上がりのはずだが?」

「いやその……父上は薬として……」

「なんじゃ、先程そなたはそれを詭弁と申したばかりではないか。肉を食せば穢れるとかなんとか」


 辰丸様がしまったという顔になった。理由を問われて、弟憎さとも言えず咄嗟に理由付けしただけで、彼本人も仏法だとか穢れがどうのこうのという考えは本意ではないのだろう。目の前で父親も食べていたことをすっかり忘れていたようで、そのことを指摘されて冷や汗をかいているようだ。

 

「仏法を守るのも大事ですが、それも健康な身体があってこそ。人の命を長らえることが仏の教えに背くとは思えませぬし、吉宗公の孫君にあたる賢丸さまが効用を示せば、健康に気遣う範を示すものとして賞賛されましょう」

「そのとおりよ。安十郎は往古来今の書物を読み、玄米に効用があることに思い至り、自身の家でそれを証明しておる。それを良しとして試すのを命じたのは余であり、反本丸を用意したのも余じゃ。なんぞ不服があるか」

「……失礼いたします」

「辰丸!」

「構わぬ。己の思慮の浅さに居たたまれぬのであろう」


 恥をかかされたと思ったのか、辰丸様は兄君の制止も聞かず、顔を真っ赤にして部屋を出て行った。その去り際に俺の方をメチャクチャ睨んできたが、とばっちりもいいところだと思う。




「差し出がましいことを申しました。相済みませぬ」

「けしかけたのは余じゃ。そなたが気にすることは無い」


 どうやら辰丸様はズバズバと物を言う強気な性格のようだが、いささか浅慮なところがあるようで、よく考えずに口から言葉が出てしまうことがままあるらしい。


 あれだな、「私ってサバサバしてるから思ったことがつい口に出ちゃうんだよね」と言いつつ、意外とネチネチ嫉妬深かったりする、自称サバサバした女ってのと似ているな……


「しかしあやつの短慮、一体誰に似たのか……」

「父上の若かりし頃に似ておるのでは?」

「治察、余はあそこまで短慮でない」

「賢丸様、どういうことですか?」

「父上も若い頃は血気盛んだったようだ」


 宗武公は有職故実や国学、和歌などにも秀で、将軍の後継者に推す声もあったという。公自身も一時はそのつもりであったため、異母兄家重の欠点を列挙して諌奏したせいで、父の吉宗に謹慎処分とされたり、九代将軍に異母兄が就くと、何年も登城停止処分を受けたりと散々だったらしく、ようやくそれが赦されても、兄と終生対面することは無かったとか。


 それだけ聞くと辰丸様は悪いところの遺伝子だけ受け継いでしまったようにも思えるな。

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