A5ランクのへんぽんがん?
その夜、田安邸でご馳走になることとなったわけだが、眼の前にはこの時代に転生してから初めて見るようなご馳走が並んでいた。
「さ、遠慮はいらぬぞ」
「恐れ入ります……」
我が家は五百石。旗本としては中堅どころで一般庶民に比べれば豊かだが、家格を維持するために使用人を雇ったりと何かと物入りで、普段の食事は一汁二菜。三菜あれば十分贅沢と言える。
一方、田安邸の献立は豪華である。今日は客人をもてなすということもあるのだろうが、御膳と呼ぶに相応しい陣容だ。
「安十郎、いかがした?」
「これは何でございましょう」
御膳の一点を凝視する俺を訝しみ、宗武公が声をかけてきた。視線の中心に鎮座いたしますのは、江戸時代に見ることが叶うとは思わなかったアレ。
いや分かるのよ。この色形、匂い、多分アレだとは思うのだが、安十郎少年としての俺は知らない物だ。だから声をかけられたのを良いことに、わざと尋ねてみた。
「ああ、それは反本丸という薬じゃ」
「へんぽんがん……?」
「左様。彦根の左中将が当家に用意してくれたものだ」
彦根の左中将とは譜代の筆頭である彦根藩井伊家のお殿様のこと。
あそこは滋賀県、この時代は近江国だろ。ってことは……やっぱりそうだよな。
「滋養に効能があるという触れ込みで私に贈ってきたが、賢丸の体に良いかと思ってな。食うてみよ」
「……では遠慮なく」
何故か周りの視線が俺に集まっているのが気になるけど、食べろと言われて遠慮は出来るはずもないので、パクリと口に放ってみる。
モグモグ……うん、間違いなく牛肉の味噌漬けだね。
それもかなり上質な部位。現代的に言うなら、近江牛のA5ランクってやつだな。
「いかがじゃ」
「大変美味しゅうございます。薬と言われて口にしたので尚更にございます」
「ふふっ、驚いたか」
こっちの時代には糖衣錠とかオブラートなんてものは無い。薬とは苦くて不味いのが当たり前であり、そう思って食べてみたら実は美味だったと驚かせたかったようだ。
「しかし、このような高価なもの、私が食して良かったのでしょうか」
「気にすることはない。ただの薬じゃ」
「牛の肉、ですよね?」
「これは肉に非ず、薬だ」
賢丸様が"薬"を強調してきた。
そう言われて、はたと思い出したのは、江戸時代は殺生を禁じる仏教の考えから、あからさまな肉食を憚り、薬と称して食べていたという歴史。
「市井でも山くじらとか申して食しておるのだろう。それと同じよ」
「たしかに」
なるほどそう言われれば納得であるが、それが文化として根付いたのは元禄時代、五代将軍綱吉が発した生類憐れみの令によるものだ。
一番有名なのは犬を大切に……のくだりなんだけど、家畜や獣全般の屠殺も禁じられてしまったため、当時食肉を販売していた店は薬屋に業態変更して、滋養強壮の薬として売ることで規制から逃れようとした。
とはいえ売るものは肉しかないから、バレないように隠語で表すようになった。すなわち、馬は"さくら"、猪は"山くじら"とか"ぼたん"、鹿は"もみじ"なんてのがそれにあたり、生類憐れみの令が廃止されても、その呼び名が残っている。
ちなみに鳥は規制の対象外だったので、鳥肉と称して食べるために、ウサギを一羽二羽と数えるようになったというのも生類憐れみの令が原因だという説もある。
「彦根ではこのような物があるのですね」
「うむ。牛の皮は鎧や鞍などを作る材料であるから、西国の抑えとされた井伊家では、兵馬を揃えるに欠かせぬものと牛を飼うことを認められておる」
「で、余ったところを薬にと」
「そういうことだ」
牛の飼育は彦根藩だけが特別に許可されたものであり、この肉も将軍家やらへの贈答に使う高級品ということか。彦根の人はもしかしたらタンとかホルモンも食べているのかもしれないが、江戸の庶民では一生口にできない代物だね。
「賢丸、お主も食べろ。お主のために用意したのだぞ」
「うーん、私は……」
「賢丸様、好き嫌いはよろしくないと申したはずです。美味しいですよ」
「分かったよ……(パクッ)。ふむ……食べ慣れぬ味と食感だが悪くはない」
一つ口にしてその味を確かめると、賢丸様は二口三口と次々に口の中へ放り込んでいった。
「意外とお気に召しましたか」
「そなたがあれほど美味そうに食べたら、食べぬわけにいかないだろう」
「それで、いかがでしたか?」
「悪くはない」
口ではそう言いながら箸が止まらないところを見ると、まあまあ気に入ったようだ。この時代は肉や卵、乳製品は一般的なものではないから、動物性タンパク質が足りていない可能性が高い。美味しい物だと分かれば、薬と称してこれからも肉食を取り入れることで、賢丸様の健康な身体作りの役に立つことだろう。
「ふん……浅ましいこと。畜生の肉や百姓の食い物を食べねばならんとは……」
俺が賢丸様に反本丸を食べさせていた反対側で、面白くなさそうな顔をした少年がこちらを見ながらあからさまな嫌味を発した。
「これ、お客人の前で無礼であろう」
これを少年の隣にいた青年が咎めた。年の頃から、おそらく田安公の跡継ぎである
賢丸様が楽しそうにしているのが気にくわなかったのだろうか。侮蔑するような視線からも、仲が悪いというのは本当なんだろうな……
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