師の遺志を継いで

――明和七(1770)年


「江戸から離れるのは初めてだのう」

「某も楽しみです」


 知遇を得て三年。玄米や肉、その他様々なものを取り入れた食事の効果もあって、賢丸様の身体はかなり丈夫になってきた。


 身体が動くようになると行動範囲(とは言っても基本屋敷の中だけど)も広がり、幼い頃から聡明と謳われたその才能に磨きがかかってきている。


 賢丸様で結果が出たことで、玄米食をはじめ肉とか卵とか、歴史上この時代ではあまり食べられることのなかったものが田安家の食卓ではごく当たり前に出されるようになり、同じく病弱だった治察様も立派な偉丈夫となられているし、宗武公に至っては齢五十も半ばだというのに賢丸様の下にまだ弟妹が生まれそうな勢い。


 これは二年前、辰丸様が伊予松山十五万石・久松松平家に養嗣子として入られ、屋敷からいなくなったのも大きいと思う。


 俺が賢丸様を訪ねれば、辰丸様は必ずと言っていいほど顔を出しては嫌味を言いに来ていた。


 その度に宗武公や治察様に何度となく怒られていたので、俺は何も言い返さずに我慢したけど、いなくなってからは気兼ねなく肉や玄米以外の食材も使えるようになったので正直ホッとしている。


 結局あの人、最後まで俺のやり方に文句を言って、玄米も肉も食べることはなかったな。栄養不足で脚気に罹っても知らんぞ。俺は自分を毛嫌いする奴に手を差し伸べるほど聖人じゃないからね。




「お兄様、お支度はまだですか。種は早う行きとうございます」

「長旅じゃ、そう慌てるな」


 俺と賢丸様が旅支度を調えているところに、可愛らしい姫君がプリプリしながら出発の催促に来た。賢丸様の同母妹種姫様である。


「姫はもうお支度が出来たのですね。さすがでございます」

「えへへ、安十郎様とお出かけですもの」


 姫は御年六歳。令和の時代なら幼稚園児の年齢なのだが、利発でとても可愛らしい。目はクリクリだし、ほっぺはプニプニだし、将来は美人になること間違い無しの可愛い子だと思う。


 そんな姫君は好奇心も旺盛で、度々俺の膝に乗ってきては「安十郎様、今日はこの本を読んでくださいませ」と強請ってあれこれと聞いてくるんだ。


 女中ははしたないと窘めるけれど、俺も弟妹のいない末っ子なものだから、ついつい甘やかしてしまうんだよな。それで賢丸様には「実の兄より兄らしいな」と茶化されるくらいには仲が良い。




「姫、此度参るのがどこかはお分かりですね」

「下総国でございますね」

「よく出来ました」


 俺と賢丸様は、今回田安家の領地である下総国の埴生郡というところに赴く。その目的は今年から植え始めた甘藷の生育を確かめるため。


 実は昨年、師・昆陽先生がお亡くなりになった。同じ頃、兄弟子である前野さんは藩主と共に豊前中津へ下向し、その後長崎に留学したと聞くので、蘭語研究については彼に任せることにして、遺された俺は飢饉に対する対策を進めるのが最後の弟子の務めと思ったんだ。


 それで甘藷に限らず様々な野菜の栽培方法を研究して広めようと考えたのはいいが、生憎とウチの領地は美濃国だ。


 遠すぎて自分の目で確かめることも出来ないし、五百石取りで二村くらいしかない領地では、年貢用の米を植える場所がなくなってしまうと思案していたところ、宗武公の厚意で田安家の土地を使わせていただくことになった。


 田安家は元々天領だった土地をあちこちから分与されて、その領地は六カ国に散らばるのだが、石高十万石とウチの実家とパイが違う。下総の領地だけでも一万石は下らないから、その中から隣接する三村ほどを栽培地として充ててくださったのです。


 どうして数ある領地から下総を選んだかというと、そこまで農業に詳しいわけではないが、未来でサツマイモの有名なところというと、この辺だと千葉や茨城、あとは川越のような、ちょっと丘陵地で火山灰土の土地が多かったような気がしたから。

 

 昆陽先生が甘藷栽培に選んだのは下総の馬加まくわり村。未来では「幕張メッセは海浜幕張駅か幕張本郷駅が最寄駅だから、幕張駅で降りるととんでもないことになっちゃうよ」の幕張と呼ばれる場所と、与力給地である上総の不動堂村。これは太平洋岸、九十九里の方にある村なんだけど、成果としては不動堂より馬加の方が良かったらしいんだよね。


 馬加も海沿いだけど、土地自体は台地に位置していてその条件に合うし、これから行く埴生郡は未来で言うところの成田空港のちょっと北あたりで、一帯が関東ローム層という火山灰土の台地。しかも印旛沼という水資源も近くにあるからという理由で、栽培に適しているのでは? と睨んだからだ。他の野菜に関しては土壌が合うかを見ながらの研究にはなると思う。


 農法は昆陽先生の教えを村の者に伝えているのでほぼお任せであるが、その結果は自分の目で見てみたいと思ったら、賢丸様の見聞を広めるためにと称して領地視察の名目で同行させてもらえることになった。


 ……まではよかったのだが、どこでそれを聞いたのか種姫様も一緒について行くと言いだし、宗武公にあざとかわいくお願いしたら、年がいってから生まれた娘のおねだりに、公も仕方ないのうとあっさり許可されたのだ。


 この時代って「入鉄砲に出女」で、女子が江戸の外に出ることは出来ないと思っていたんだが、幕府の留守居役に正式に願い出ると「女手形」ってのが発行されるんだとか。もちろんその条件は厳しいらしいけど、そこは宗武公の力でどうにかなったらしい。


「安十郎様と旅が出来るなんて嬉しいです」

「姫、あくまで今回は視察です。物見遊山ではありませんよ」

「分かってます。うふふ……」


 いや……絶対分かってないでしょ。

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