御三卿のお殿様

「安十郎くん、どう思う」

「うーん……主体となる語、その動きに対する言葉、それらを補足する語と続くのが基本形なのは間違い無いかと。文章の順番を変えてはいけない決まりがあるのでは?」

「やはりそうか」

「我々は"私は飯を食う"とするところを、"飯を私は食う"でも通じますが、オランダ語でそれはあり得ないのだと思います」


 良沢さんと知り合って早三年経ち、今は明和四(1767)年。あれから俺は昆陽先生の屋敷でオランダ語の勉強に付き合わされていた。


「いやー、君と一緒にいると学びが捗る。己の息子とも言うべき歳の子に気付かされることが多い」

「文の構成はなんとなく見えてきましたが、まだ専門的な単語の意味が解読出来ないから、文章全体を読むのは難しそうですね」

「かの昆陽先生ですら何十年かけてようやくここまで来たのだ。千里の道も一歩からと申すではないか」


 そう言われてとても気恥ずかしい気持ちになる。


 昆陽先生もそうだけど、相手は歴史の教科書に載るような偉人。一方俺はどこの誰とも分からないモブキャラだもの。


 ただ、俺が伝える内容を良沢さんはきっちり理解しているようで、もしかしたらオランダ語翻訳が史実より早く進むのではと感じている。


 解体新書で一番有名になったのは杉田玄白だけど、実は彼はあまりオランダ語が得意ではなく、どちらかというと前野さんが訳したものを医学的見地から日本語に意訳する役割だったと何かの本で見た記憶がある。


 刊行されたのが何年だったか覚えていないが、医療体制が脆弱なこの時代、少しでも早い医術の進歩は重要であり、前野さんのオランダ語理解が進むことで翻訳作業が史実より捗れば、その一助になると思うんだ。


 俺の外国語知識が合ってるという仮定での話だけど……


「良沢、またお主は無理強いしおって」

「これは異なことを。安十郎も某も、志高く精進しておるのです」

「私は蘭語以外も学びたいのですが……」

「ほれみろ、相手は幼子じゃ。少しは気を遣えバカモンが」


 良沢さんにあの手この手で質問責めにあっていたところに昆陽先生が帰ってきた。先生は今、書物奉行という役職に任じられているから、昼間は屋敷にいない。主不在のところで好き勝手やっているのもどうかと思うが、先生が構わないと仰るので遠慮なく居座っているのである。


「それはそうと安十郎、お客人が来ておるのだ。一緒に茶でもどうだ」

「よろしいのですか?」

「客人がそなたの話を聞いて是非会ってみたいとな」


 そう言われれば断る理由もないので、俺はお客人がいるという部屋まで同行した。




「右衛門督様、連れてまいりました」

「近う」


 通された部屋の中には、いかにもお殿様といった風格の身なりの良い方が上座に座っておられた。


 先生の畏まり方、そして呼んだ官職名からも相当身分の高い方だと思われるので、誰? と聞くまでもなく自然と礼を取る形になった。


「お初にお目にかかります。徳山……」

「よいよい。忍びゆえ、堅苦しい挨拶は無しじゃ」


 名乗りを上げようとしたところでその御仁が気さくに声をかけてきた。挨拶しないと名前も伺えないのだが……


「安十郎、こちらは田安公であらせられる」

「宗武じゃ。父とは何度も顔を合わせておるが、そなたとは初めてじゃな」




 田安徳川家。将軍家に後嗣がないときは跡継ぎとなる資格を有する、いわゆる御三卿の一家。


 分家ではあるが江戸城内に屋敷を構え、便宜上それぞれの屋敷から最も近い城門の名を通称として、目の前にいる八代将軍の次男宗武公は田安家、その弟宗尹公は一橋家、そして九代将軍の次男重好公は清水家と呼ばれている。


 そんな方が俺に一体何の用があるというのだろう?


「取って食うわけではないからそんなに怖がることはない。甲斐守からお主のことはよく聞いておるし、昆陽殿もたいそう利発だと評しておったが、聞けば我が息子と同い年だというではないか。それで会ってみたいと思いやって来たのだ」

「恐れ入ります」

「それで、ちと頼みがあってな」


 その頼みとは、公の七男で俺と同い年だという賢丸まさまる様に関すること。


 公にはこれまで七人の男子が生まれたが、やはり時代のせいか、現時点で生きているのは五男、六男、七男の三人のみ。


 中でも賢丸様は聡明な御子と評判だったらしいが、何年か前に生死を彷徨うほどの大病を患い、なんとか一命は取りとめたものの、未だに何度となく病に罹っているそうだ。


「病がちで中々外に出歩くことも出来ず、年の近い話し相手もおらず寂しい思いをしておっての」


 すぐ上の兄君とは年は近いが、あまり仲がよろしくないようで、同年代で親しく接してくれる者を探していたんだとか。


「そのお役目を私にと?」

「そなたの父は我が父の小姓であった。なれば我が息子の側におるのに身分は十分だ」


 これはつまり、賢丸様がどこかの家に養子入りして家督を継ぐようであれば、その家臣として仕えることが出来るのかも……


「そなたはあまり仕官には興味がないか?」

「いえ、部屋住の身でございますので、立身のために学を修めるのが良いかと思いまして。蘭学に限らず昆陽先生には色々ご教示いただいておりますれば」

「それなら好都合。親馬鹿かもしれんが、賢丸も学問が好きでのう。良ければ共に机を並べて学んではくれまいか」


 ありがたい話だが、私個人の判断で承諾は出来ないので、父の判断を仰がねばと伝えると、ならばすぐに使いを出そうと仰った。


 まあ親父殿も将軍家ご一族に頼まれて否とは言えないだろう。


 もしかしたら仕官の道が開けたか……?

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