田安屋敷
<江戸城内>
それからトントン拍子に話は進み、俺は賢丸様に目通りするため田安屋敷を訪れていた。
田安門は江戸城の北辺にあり、門をくぐった先、北の丸と呼ばれる一帯の西側に田安家、東側に清水家が屋敷を構えていて、未来で言うと日本武道館がある場所の近く。九段下の駅から武道館に向かう際にくぐるあの門が田安門だと言ったら、分かる人も多いのではないだろうか。
正直緊張している。そもそもお目見えする資格すらない旗本の部屋住小僧が城内に入ることなど、余程のことがなければあり得ない話で、そのあり得ないことが現実に起こっているのだから仕方ないだろう。
「緊張しておるのか」
「しないほうがおかしいと思います。いきなり『無礼者!』とか言って斬られたりしないですよね?」
「無礼を働かなければな」
父は西の丸
徒頭は役高千石の役職。旗本や御家人など、徳川の直臣全体から見ればかなり高い身分だが、こと城内では上には上がいるわけで、将軍の一族なんてその最たる例だ。息子が呼ばれて粗相がないかと心配する気持ちはよく分かる。
「本日は私事にてお呼びしただけゆえ、無礼講にございます。あまり肩肘張らずともよろしゅうございます」
そんな親子の様子を察してか、案内する田安家のご家来――おそらく賢丸様の養育役が声をかけてきたが、言葉を鵜呑みに出来るわけがない。
『無礼講と言っても程度というものがあるだろう!』
前世でもそんな感じでやらかして、後でエライ目に遭った者を何人も見てきているからね。
「殿、甲斐守様とご子息、お着きにございます」
「うむ、お通しせよ」
広間に通されると上座には宗武公、その横に俺と同い年くらいだけど、ひ弱であまり顔色の良くなさそうな少年がいた。この子が賢丸様だな。
「お初にお目にかかります。徳山甲斐守が八男にて安十郎と申します」
「賢丸じゃ。そなたは私と同い年でありながら、すでに昆陽先生に教えを請うていると父上から聞いたが、それは真か」
「はい。先生には色々とご教示いただいております」
「羨ましいのう。私はこのとおり身体が弱く、外に出ることもままならぬ身ゆえ、羨ましくて仕方が無い」
賢丸様もたいそう利発なお子という話だが、大病を患って以来床に伏せがちなのだとか。それでも書を手元から離さず読みふけっておられるというのだから、相当な勉強家なのだろう。
「勉学を志すは身分の上下を問わず大事なこと。賢丸様のお気持ちはよく分かります。されど、まずは御身の養生を第一になされるべきかと。槍働きにせよ、頭を使う仕事にせよ、身体が健康でなくては正しい判断は出来ませぬ」
「それはそうなのだが、如何にすればよいものか」
「まずは食事から改めてはいかがかと。玄米食がよろしゅうございます」
「玄米? そなたは賢丸に百姓と同じ物を食せと?」
玄米という言葉に反応したのは宗武公。
正確に言うと、農民は税として取り立てられるから、白米どころか玄米ですらそれ単体で食べることは少なく、普段は少しの玄米にアワ・ヒエなどの雑穀を混ぜて食べているのだが、農村の暮らしを知らぬお殿様からしてみれば、俺の発言はそれと同義に思えたのかもしれない。
「方々は江戸患いというものをご存じでしょうか?」
元々白米は精米に手間がかかるため、一部の支配階級しか食べられないものだった。
それ以外の者は、糠がついたままの玄米や分づき米、雑穀などを食していたが、炊き上がるまでに時間がかかって燃料代がかさむ上、炊いてからしばらく経つと臭いがキツくなる玄米を忌避し、炊きあがり時間が短く、臭くなりにくい白米を選ぶようになった。
江戸は武士の街。その武士は給料として支給された米を換金して生活費としているから、この街は日本で一番米が集積する場所であり、武士階級はもとより、元禄の頃からは市中の町人も気軽に白米を手に入れることが出来る環境にあった。
ここには江戸に肉体労働者が多かったことも無縁ではない。日々肉体労働に汗を流すと、どうしても塩気の多いおかずが欲しくなり、そうしたおかずには玄米や分づき米よりも断然白米で炊いたご飯のほうが相性が良かったことも一因であるようだ。
消化の良い、言い換えると腹持ちの悪い白米が主流となったことで、一日二食が三食に変わり、昼間仕事に出ている者が家に帰ることなく昼食を取れるよう外食産業が興隆するするなど、食生活が大きく変わった反面、出てきたのが江戸患い。その症状は足のむくみや痺れ、全身の倦怠感。悪化すると寝たきりになって死に至ることも多い病。未来で言うところの脚気というやつだ。
「その解決法の一つが玄米でございます」
実を言うと、徳山家中の者にもその症状が見受けられる者がいた。父上もお勤めを終えて家に帰ってくると、足がだるいと言ってはさすっていたのを見て、これはもしやと思い玄米を食すよう勧めたのだ。
「それ以来、私の体調もすこぶる良好です。足のむくみも気になりません」
俺の言葉を後押しするように、父が補足をし始めた。
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