和訳って難しい
先生がオランダ語を習得せよと命じられて、まず向かったのは長崎。そう、出島のオランダ商館である。
言語を学ぶならネイティブに教わればいい。それは間違いではないのだが、そもそもこっちはオランダ語を話せず、向こうは日本語を話せずで、どうやって意思疎通をすればいいんだという状態で上手くいくはずがない。
そうなるとオランダ語を解する日本人、つまり通詞に教えを請うことになるが、これも中々上手くいかなかったようだ。
彼らは公式の通訳者として幕府の役人を世襲しており、
通詞にとってオランダ語を話す能力というのはある種の技術と言うべきものであり、自身の家が通詞として生きていくための秘伝。おいそれと漏らして、誰も彼もがオランダ語を学べるようになっては自分たちの地位が脅かされるとあって、積極的に教えようとはしなかったのだと思う。
それでも将軍直々の命である。教えてもらえませんでしたでは許されないわけで、粘り強く食い下がった結果、アルファベットの読み方だったり、いくつかの単語の意味なんかを習得し、先生が「和蘭文字略考」なる書物を記したのはおよそ二十年近く前のこと。
それ以来、先生は江戸における蘭学の祖みたいな扱いを受けているが、正直に言って「和蘭文字略考」は文法に関する記述が無いので、これでオランダ語が学べるかと言えば無理だと思う。なんだったら未来の日本で小学生が初めて習う英語のテキストの方がよほど役に立つくらいだ。
だけど本当の無から有を生み出すなんて、余程の才能や努力が無いと出来ないことだ。それを何十年も続け、それこそもうすぐ七十にならんとしているのに未だに衰えぬ先生の探究心には感服するしかないし、こんな小僧のたわいもない質問にすら嫌な顔をせず答えてくれる出来た御方だ。尊敬こそすれど嘲るようなことは何一つない。
だから、俺も陰ながら力になりたい。
「先生、お戻りになったばかりのところ恐れ入りますが、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「今日は何かな?」
「はい、この蘭書のこことここですが、同じ単語でございますよね」
「そうだな。同じ言葉のようだな」
「ですが、それぞれその頭に違う文字が付いているのが気になりまして」
「ふむ、そなたはどう考える」
「愚考いたしますに、これは何か対になっている物なのではないかと」
俺が示した場所には同じ単語が二つ並んでいる。その単語自体の意味はよく分からないが、一つには「up」、そしてもう一つには「onder」という文字が頭に付いていた。
片方は"up"だから上だよな。するともう片方はスペルは違うけど"under"つまり下という意味だろうと思う。
「対になっている物の位置関係。例えば右と左、前と後とか……」
「上下とか」
「ただの推測ですが」
――テレレレッテレー! ほんや○コン○ャクー!
……なんて都合のいい物が出るわけはないので、回りくどく可能性を指摘する方法しか採れないのよね。ストレートにこれだ! と言っても根拠を示せないから仕方ないんだけど、それでも俺の言いたいことを理解してくれたみたいだ。
ホント、あのコ○ニャクあったら便利だろうなあ……
「あの……先生」
「おおすまない。この子が突拍子もないことを言い出したゆえ、忘れかけておったわ」
昆陽先生と話していたら、どうやら一緒に帰ってきた客人を待たせてしまっていたようだ。
「いえいえ、私も面白い話を聞けてなによりです。ところで先生、こちらはお孫さんでございますかな?」
「いや、知り合いの子じゃ。儂の最後の弟子かもな」
「左様でしたか。ならば某の弟弟子ですな」
弟弟子? ということは、この人も昆陽先生に師事しているということか。
年の頃は四十前後。どこかの武家の方だと思うが、温和な表情ながらも意思の強そうな目をしているのが印象的だ。
「安十郎、こやつは
「前野にござる」
「兄弟子様、お初にお目にかかります。徳山甲斐守が八男で安十郎にございます」
先生が紹介してくれたその人の名は前野良沢さん。豊前中津藩の藩医、前野家の婿養子になった方だそうです。
で、昔知人にオランダ語の書物を見せてもらい、異国だろうと同じ人間の話す言葉だから理解出来ないはずはないと蘭学を志したのだとか。それで江戸では蘭学に一番造詣の深い昆陽先生に教えを請うているらしい。
やっぱり医者ってのは頭が良いから、学問への探究心が旺盛なんだなあ。
……って、前野良沢? どこかで聞いた名前だね。
前野……オランダ語……‼
もしかして……
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