甘藷先生
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「お邪魔しております、先生」
「なんじゃ、また来たのか小僧。物好きな奴じゃのう」
「先生のお屋敷には珍しき書物が沢山あるので飽きませぬ」
この夏、元号が宝暦から明和へと変わり、俺こと徳山安十郎は大病一つ患うことなく、無事に七歳の年を迎えた。
なにしろこの時代は乳幼児の死亡率が高い。赤子のうちに亡くなるのは珍しくもなく、だからこそ元気に成長した子供は節目節目でお祝いがある。後の世で言うところの七五三というやつ。当然俺もお祝いしてもらったよ。
それで驚いたのが、この時代には既に千歳飴があったんだ。
その起こりは元禄の頃らしいんだけど、浅草の七兵衛という飴売りが、紅白の飴を「千年飴」として売り出したのが始まりなんだって。
その名前が長寿をイメージさせる縁起の良いものだから、子供が健やかに育ちましたと参拝に来た人にウケて、いつしか子供のお祝いのお供になったそうだ。甘味の少ない時代だから、子供たちも大喜びするわけだ。
「で、好きに本を読んでおって構わぬとは申したが、その本に何が書いてあるか読めるのか」
「読めません!」
俺の元気な返事に、「だろうな」と苦笑いするのは青木
元々は儒学や漢学を学んでいた方だが、後に南町奉行大岡忠相、俗に言う大岡越前、"おおおかえちぜん"って"お"が3つもあるのに、発音すると実質1.3個分くらいしか声に出ない、あの大岡越前守に取り立てられて御家人となった御方。
その一番の功績は
享保年間に発生した大飢饉で民が苦しむ中、既に農耕作物として甘藷が普及定着していた薩摩では飢える民が少なかったとのことで、これを栽培して救荒食とすべきだと上申し、江戸近郊で栽培を始めた。以来、甘藷先生とも呼ばれる当代随一の知識人だ。
その知識はそれだけに限らず、経済だったり貨幣に関する書物を記したり、甘藷栽培の後は各地に眠る古文書の解読を進めたりと、マルチな才能を発揮している。
その先生が今取り組んでいるのが、オランダ語の習得と蘭書の和訳。
吉宗公は海外の知識・技術を習得するため、それまで禁じていた外国書籍のうち、実用的なものについては禁を緩め導入を図ったが、江戸には誰一人読める者がいない。そこで当時四十歳を過ぎた先生が、野呂元丈という方と共にオランダ語を習得せよと直々に命じられたのである。
先生は漢学も学んでおり、外国の言葉(といっても向こうも漢字だけど……)には慣れていると思われたのだろうが、博識で知られる先生でも一筋縄ではいかず、既に六十も半ばを過ぎたお年ながら、今もなおオランダ語の習得に余念がないのである。
そんな大先生にどうして俺が師事できたのかというと、どうやら親父殿が大御所となった吉宗公の小姓を務めていた縁で知り合いだったらしく、俺が難しい本をよく読むこと、そして師を求めていることを告げると、ならば屋敷にある書物を好きに読みに来ていいぞと許可してくれた。
まあ先生も先生で子供の手習いくらいに思って、飽きるまで好きにしたらいいといった程度の認識だったのかもしれないが、俺は三日と空けずにやって来た。
徳山家は江戸城から隅田川を越えたさきにある本所に居を構えており、子供の足だとここまで来るのに半刻(1時間)ちょっとはかかるけど、この時代の人にとっては十分徒歩圏内。
というか、基本徒歩しか移動手段が無いから当たり前ではあるけど、飽きもせず本を読み漁っては、これはどう言う意味か、これはこういう考えで合っているかと質問しているうちに、直接色々と知識を授けてくれるようになってくれたんだ。
「お主の吸収力には驚かされるが、さすがに蘭書は早かろう」
「"あるふぁべっと"を教わりましたので、どの文字がどれかを探すだけでも楽しいです」
「不思議な子じゃ。大人ですら蘭書を見たらチンプンカンプンで頭が痛くなる者が多いというに」
オランダ語の発音や文法はドイツ語に近いと聞いたことがある。もっともそのドイツ語だって大学でちょっとかじった程度なんで正しいかどうかは分からないけど、アルファベットをつなげてドイツ語っぽい読み方をすれば雰囲気は感じ取れるし、同じゲルマン語派である英語と似た単語も多いから、学校で英文に触れていた経験がある俺にとって、アルファベットで書かれた文章を見るのはそれほど苦ではない。
だけど見たこともない異国の文字を解読しなくてはならないこの時代の人にとっては苦痛だろうな。これがアラビア文字とかだったらさすがに俺も無理だったと思うし、時代が違うからそもそも現代と言葉の意味合いが違うなんてパターンもあるかもしれないので、大っぴらに読めます! なんて言うのは憚られるところだ。
どうしてかと言えば、師である昆陽先生ですら文章は読めないから。
未来ならば「
……けど、この時代にはそんな物すら存在しない。先生はまさに徒手空拳の状態で未知なる言語に挑んでいるのだ。
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