墓まで持っていくはずだった(後)

 思わず声が出たが、言葉を続けられなかった。


 君は…心変わりしたわけじゃなかったのか…?

 自明だった。そう考えた方が、明らかに自然だった。

 僕は…ナンシーに騙されていた。

 じゃあ、何のために僕はあんな…


 すっと目の前が暗くなりかけ、震えはいっそう激しくなった。一切を打ち払うために、壁を思い切り叩いた。ビビアンはびくりとしたが、黙ってその場にとどまっていた。

 震えはおさまったが、今度は冷や汗がどっと噴き出してきた。これまでの憎しみがままごとだと思えるくらい、ナンシーが憎い。なのにあいつはもう滅んでいる…!

 再び壁を叩きつけた。いっそ僕の手で殺すためにもう一度生き返らせてやりたい。

 だがそれよりも、まんまと踊らされた己の愚かさがもっともっと憎い。恐ろしい唸り声が自分の喉からほとばしり出て、壁に思い切りぶつかった。両の拳と、額も。あの教会の石壁が今すぐここに落ちてくればいい。

「…ごめんなさい」

 ビビアンのか細い声で、彼女が脇に佇んでいることを思い出した。

 壁に取りすがった腕の隙間から彼女を見ると、自嘲と不安で表情を歪ませていた。僕の動揺を、自分に向けられた怒りだと思ったようだ。

「ナンシーとは、去年のうちに終わらせてた。そしてあたしの罪は墓まで持ってくつもりだった。ティモシーを、誰より大切にしたかった…あたしの考え無しで、また傷つけたくなかったから…でも、とっくにばれてたね…」

 そしてため息。

「こんな…言い訳も、醜いね」

 彼女もまた、拳を握りしめて震えを抑えようとしていた。

「……」

 僕は身を起こし、深呼吸した。

 もはやその程度のことなど、大した罪でも秘密でもなく思えてくる。

 ならば僕も、墓まで持っていくはずだった秘密を明かそう。どうせ君もとっくに察してる。許し合えるかどうかはそれからだ。


「ビビアン、あの赤ん坊――ノエルのことだけど」

 喉が狭まる気がして、もう一度息を吸う。彼女は黙って続きを待った。

「僕は、養子として引き取るつもりはない。あの子の…、あの子は…」

 恐れるな、言うんだ。

「あの子は、…僕の子なんだ。僕が…ナンシーと…関係して…産ませた」

 塊を一つずつ吐き出すようにして、台詞をやっと言い終えた。

「…だから、庶子として引き取る」

 重い沈黙の後、彼女の唇が動いた。

「ナンシーは、合意だと言ってた。それは本当?」

「本当だ。…ああ、いや…わからない」

「え?」

「合意するしかない状況に追い込んだ。合意する方が得だと思わせるよう、取り引きをもちかけた。ナンシーは確かに合意したけど、きっと納得してなかっただろう」

「……」

 ビビアンは、壁に背を当てると目を閉じて両手で口元を覆い、大きく息を吐いた。

「君だけじゃない。僕も罪をいくつも抱えてる。君を裏切り、結果ナンシーを死なせた。ナンシーも僕を騙した。みんな罪がある」

 僕は外を向いて窓枠に両肘で寄りかかり、額を覆うように支えた。

「どんな思いから出発しようが、自分の行動を止められなかった時点でみんな同罪なんだ」

 彼女は不満げに首を振ったが、僕は続けた。

「かと言って相殺はされないとも。僕とナンシーの罪は消えずに残ってる。あの…」

「ティモシー!」

 彼女が鋭く叫び、僕の腕を掴んだ。

「それ以上はだめ。そんな風に考えてはだめ。あの子に、ノエルにそういう意味を与えないで」

「……悪かった」

 僕は自分で言ったはずだった。子ども自身に自己肯定感を与えるために何が必要かと。

「でも僕とナンシーは愛し合ってたわけじゃない。それぞれ君を愛してた。お互い君に愛された相手だと思うから、君のために何とか敬意を払ってた。その程度だ」

「それでいいじゃない。十分よ」

 ビビアンは即答したが、僕はそんなに単純には考えられない。黙っていると、彼女はフッと口の端を歪めた。

「あんたに比べたら、あたしの馬鹿さ加減なんて…もう救いようがないくらいよ」

「ビビアン?」

「本当に合意なんだってわかって、あたしの…、ごめんね、本当にあたしの立場でこんなこと言うのは許されないだろうけど、…あんたたちがあたしを愛してくれてるから、それが理由で合意してのことなんだ、ってわかって、あたしが思ったことは」

「何? 何が言いたい?」

 彼女が次に発した言葉は、あまりにも予想外すぎることだった。

「あたしのために、あたしではどうしても手に入れられないものを二人で作ってくれたんだ、って…」

 僕は呆気にとられた。

「な…」

「あたしは、ティモシーの子どもがほしかった。そのためにあたしのお腹を使うことはできなかったけど、ナンシーが…」

「待て、いくら何でもおめでた過ぎる…!」

「わかってる。自分を棚に上げて…でもあたしは、感謝したいの。感謝しかしたくないの。恨みや憎しみがどんなに人を狂わせるか、あたしはとっくに思い知ってる」

 ビビアンは、微笑もうとして失敗した。唇を噛み締めても端がひきつり、嗚咽がのぼってこようとしていた。決しておめでたい気分ではいなかった。

「でもナンシーには生きててほしかった…最初から、ううん、どこかの段階ででも、全部正直に話せていたら…あたしもあんたたちもみんな隠さなかったら、もっと話は違ってたかもしれないのに…」

 とうとう泣きじゃくり始めた彼女を、戸惑いながらも引き寄せざるを得なかった。

 僕もナンシーには生きててほしかった。だけど、どう正直になろうと、例えば三人で仲良く暮らすなんてのはとても無理だ。

 本当に君は、どうしてこの期に及んでそんなふわふわしたことを言えるのか。だから僕は重しの役をやるんだ。ナンシーみたいな根無し草じゃ、諸共に飛ばされてしまう。その方が自由でれたのかも知れないけど、君は選ばなかったのだから。

「…あと一つ、お礼を言わせて」

「え?」

 僕の肩に頬を押し当てたまま、ビビアンが言った。

「あんたは、外で女を作って、できた子どもを連れて来れたわけでしょ」

「……!?」

「何だかんだ言いながら、それでもちゃんとあたしのお願いを聞いてくれるのよね。そういうところ大好きよ、ティモシー」

 そうして見上げてくる顔は、目眩を起こさせるのに十分だった。

 これだ。この顔だ。ずっと昔から変わらない。この笑顔には、どうしても勝てないんだ。

 どうやら賭けは彼女の総取りだ。

 僕は嘆息して天を仰いだ。


 やっぱり君の方がよっぽど小悪魔だ。

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