墓まで持っていくはずだった(前)

 ビビアンは、葬儀が済むまでは今にも後を追いそうな雰囲気だったが、パットンさんの一喝で何とか現世に精神が戻ってきた。

「何ですか! 赤ちゃんを引き取ると言うならいつまでも腑抜けてちゃいけません! ナンシーさんがするはずだったことを、今は奥様がしなけりゃいけないんですよ!」

 それでビビアンは赤ん坊の様子を繁く見に行くようになったが、さすがに彼女自身ではできないこともあった。彼女は産院やパットンさんの伝手つてで乳母をスカウトすると、その人とともに産院から赤ん坊を連れ帰ってきた。

 乳母はナンシーがいた部屋に入った。

 赤ん坊をこの家で育てることも、そのために乳母を雇うことも、僕は相談されなかった。

 その気になれば赤ん坊を養子として届け出ることもできたろうが、彼女もまだそこまではしなかった。

 赤ん坊は今だに名前も付けられず、正当な引き取り手が明らかになるまで宙ぶらりんの身分にされていた。

 そしてまた、真相を語る機会も投げ出されたままだった。僕もナンシーのように、それを墓まで持っていくべきなのかもしれない。


* * *


 びくりと動かした腕が、壁を打った。

 僕は書斎の壁際に置いた小さなベッドで、身をこわばらせて横たわっていた。以前ビビアンと寝室を分けていた時期、主寝室を使う権利を彼女に譲り、僕はここで寝起きしていた。ナンシーが転がり込んできて、僕が出ていくと宣言してからはまた使うようになった。

 浅くなった呼吸を整えようとしながら、上掛けにくるまり直す。窓の鎧戸の隙間から淡い光が差し、すでに空が白んできていることが窺えた。

 ナンシーが亡くなってから、安眠できる夜などなかった。目を閉じると彼女の睨む顔やノエルの嘲る顔がいつも浮かんだ。ビビアンの泣きじゃくる姿が大きく小さく視界に揺れ続けた。かつての仇敵が下卑た笑い声で手招きするのまで見えた。

 拳でベッドを叩いても、それらは消えなかった。何度叩いても。


 愚かなことをした。

 いっときの感情に流されて、僕はまた繰り返してる。取り返しのつかない失敗を。

 前はビビアンの中の小さな命を奪い、今度は小さな命は無事だが母親を失わせてしまった。こんなにも罪深い行いがあるだろうか。僕は、僕は…自分の手を汚すことなく命を奪ってるんだ。奪おうという自覚もなく奪ってるんだ。

 腹黒の卑怯者が為すことなんてこの程度だ。どうしても欲しいものをずるい手を使って手に入れ、失うのを恐れてまたずるい手を使う。そこまでしても完全に僕のものにはできなかった。

 こんな僕はもはや、愛されたいと思う資格などなくて、許されたいと思うのさえおこがましくて、永遠に罰されるべきだろう。

 地獄にいるのは僕だった。


 ――気づくと、もう日常を開始すべき時間だった。だるい体を起こし身支度をして階下へ降りると、乳母がキッチンに立っていた。

 赤ん坊の部屋を覗くと、ビビアンがその子を腕に抱き、何か口ずさみながらゆっくりと揺らしていた。

 背中越しに見える横顔は、朝の光でまつ毛まで透き通って見えた。




 …君を愛していた。


 僕の持ち得るもの全てを君に捧げ、全身全霊を尽くしても構わなかった。

 けれど人の身のさがで、同じものを君から与えられたいと願わずにいられなかった。

 君に、全身全霊で愛されたかった。


 君は、僕の魂を愛してると言ってくれた。


 でも魂の器までは愛し切れなかった。

 それが寂しかった。


 君の器が愛したのは僕ではなかった。

 それが悲しかった。


 いっそ器がなければ、僕たちは完全に愛し合えたのだろうか。

 魂だけで出会えたならば、境界もなくそのまま溶け合うことができただろうに。




「あ、おはよう、ティモシー」

 彼女は僕に気づき、腕を揺らし続けながら声をかけた。

「…おはよう」

「ねえ、この子いい加減に名前を付けてあげなきゃ」

「ひょっとして、僕に付けろって言ってる?」

「そうよ。せめて名付け親の役くらい果たしなさい」

 そう言うと、彼女は僕をまっすぐ見た。抗えず僕は中に入り、傍らに立って覗き込んだ。

「あんた、今まであんまりこの子のこと見てなかったでしょ。たまにはちゃんと抱いてあげて」

 彼女から赤ん坊を渡され、腕を差し出すと意外とずしりと重かった。彼は眠っているのかずっと目を閉じたままだった。

「お上手」

 赤ん坊はむっちりとしていて、誰の面影に似ているか確かめようがなかった。ぽわぽわと生えてる髪は金だった。眠っているので目の色はわからない。そう言えば確かにここまで目近に見たのは初めてかもしれない。

 男の子は女親に似ると聞く。だからどっちかと言えばこの子はナンシー似かもしれない。もしかしたら、彼女の男装姿そのままになるのかも。

「ノエル…」

 赤ん坊が、うぶぁ、と一瞬声を上げてまたむにゃむにゃと眠った。

「まあ、返事したわ。気に入ったのね? じゃあこの子はノエルね。いい子ね、ノエル」

 図らずも、あるいはまるで運命づけられたかのように彼はノエルと名付けられることになった。今後、ビビアンが「あんたはあたしの大切な子。愛してるわ、ノエル」なんて言ったりするのを、僕は傍らで聞かねばならない。結局、ナンシーに与えたはずの罰を自分で引き受ける羽目になった。人を呪わば穴二つとはよく言ったものだ。

 思わず自嘲を洩らすと、ノエルは今度こそ泣き出した。

「ふぉぁあああ゛!」

「あらあら」

 ノエルをビビアンが引き取り、飛んできた乳母がビビアンから引き取った。授乳すると言うので僕たちは部屋を出た。


「ねえ、二階の空き部屋、あの子に使ってもいい?」

「ああ。あそこは元々子ども部屋として使われていたんだ」

 そこで鍵を取って二人で階段を上がり、ビビアンの私室の向かいの部屋を開けた。彼女は家具の一切ない空間を見渡すと、「まずはベビーベッドね」とつぶやいた。僕は東に面した窓を開け、朝の爽やかな風を取り入れた。

 窓枠に半ば寄りかかってその空気を吸っていると、ビビアンが寄ってきた。反対側の枠に手を添え、静かに僕に問いかける。

「…ナンシーを、恨んでる?」

「…………何とも言えないな」

 怒りや憎しみはあったが、死なれてはもう恨むぐらいしかできない。だが、恨みを向ける相手は果たしてナンシーなのか。ナンシーだけなのか。遡れば、僕自身を恨んでもおかしくはない。

 なぜずっと、思いを手放せないままでいるのかと。

「…あたしは、恨まれるべきなんでしょうね」

 彼女は、自分には罪が二つあると言った。

「あんたのことも、ナンシーのことも、裏切った。あんたと別れるなんて論外だけど、夫婦としてやっていくには、…ナンシーが必要だった」

「……」

「あの子は、あたしのために人生を、ありのままの自分を捧げたのに、あたしは彼女に同じものを返すことはできなかった。なのにきっぱり断ろうともせず、都合のいい道具にしてしまった…」

 彼女の視線は次第に落ち、窓の縁に添えられた手の指先は震えていた。

「ナンシーは…気の毒な子。欲しいものを欲しいって言ったり、手に入れようと何かすることが最初っから許されてない。許されてる人と張り合って同等以上になって、ようやく好きにできるんだわ。本当は純真な子なのに、それまでどれだけ自分自身も傷つけてたのかわからない…。あたしをどうにかして奪えるものならって思ってるのもわかってた。できっこないから、『じゃあ盗めば?』なんて煽ったりして、ますます傷つけた」

 独白を聞くうち、なぜか僕の身も震え始めた。

 さっきからビビアンの言ってることは、ナンシーの話と食い違う。いや、逆に抜け落ちていたピースがはまったような――


「待ってくれ」

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