2
真相
ナンシーを出産まで家に置くことに承諾させられた日の夜、僕はとうとう耐えきれずにビビアンへ二人の関係を知っていると告白し、その上で別居の意思を伝えた。
ビビアンは、動揺しながらベッドを抜け、
赤子が世に出でてくるまでは、会うつもりはなかった。だが胎児でいる間でなければ味わえないこともあると気づいた。自分の中にも、そんな浮ついた願望があるなんて思わなかった。人のことは言えない。僕は、本来の妻と過ごすのであれば曇りなく至福であろうひと時を、ナンシーで代用した。
だが彼女の部屋を立ち去ろうとした時にノックの音が響き、ようやく己の軽率さを呪った。
「ナンシー? …起きてるんでしょ。入るわよ」
返事も待たずにビビアンはドアを開け、驚くこともなく傍らの僕を確認した。硬い沈黙が流れ、ナンシーからの非難がましい視線から顔を反らすと、ビビアンはビビアンで首元の痣を覆うように手を当てた。
「ねえナンシー」
ビビアンが口を開いた。
「あたしやっぱり気になっちゃうからまた聞いちゃうんだけど」
努めて平板に。
「その子の父親は、本当にあたしが知らなくてもいいような相手なのかしら?」
形ばかり口角を上げて。
「教えて」
* * *
冬の初めだった。早朝の空気は針のように冷たく、呼吸のたびに鼻腔を刺した。
うす青い朝靄の中を、荷物をトランク一つにまとめたノエルが現れた。
『よう、あんたに見送られるとはね』
『やっと追っ払えると思うと嬉しくてね』
『言ってな』
ノエルは昨夜、ハリー&カニンガム劇場との契約を解消した。今日で住まいも引き払って姿を消す。
『それで、どこへ行く? まさか隣国までは行けないだろう』
『王都は出るけど、そんなには離れない。どこか近場の小さい町に落ち着いて、地味な仕事でも探すさ』
『食い上げるなよ。たかが一年しのげるくらいの胆力を見せてもらわなけりゃ、僕も譲れない』
『ああ、ご心配なく』
乗合馬車がやってくるまではまだ時間がある。
僕は懐から小箱を取り出し、彼女に渡した。
『ノエル、これを預けておく』
『何だこれ?』
『子どもが産まれたらその子に託すんだ。万が一その子を一人ぼっちにしてしまうようなことがあったら、これを持ってダルトン家を頼るよう言っておけ。もっとも、お前がどじなことをやらかさなければそれが一番だがな』
『どういうことだ?』
ノエルは蓋を開けて中を見ると、口笛を吹く真似をした。
『…値打ちものだな』
『売るなよ、足がつくからな。それが子どもと父親を繋ぐ唯一の手がかりになる』
中には、一対のバロックパールのカフスボタンが収めてあった。
『全く、あんたらと来たら人を信用しすぎだ』
彼女は舌打ちすると、自分の懐に小箱をしまい込んだ。
馬車の音が聞こえてきたので、僕は離れた。
ノエルは、帽子をちょっと取って言った。
『じゃあな。一年経ったらケリをつけに来るよ。その前に負けを認めてとんずらしてくれてたって構わないぜ?』
『抜かせ』
馬車は、朝靄に消えていった。
* * *
晩秋の木枯らしは、油断するとコートの裾から侵入して体温を容赦なく剥ぎ取っていく。人々はどこかの軒に逃げ込んで、暖かいものを補充せずにいられない。暖炉、酒、人肌、何でもいい。だが暖かい思い出だけは役に立たない。かえって惨めになる。
『…はー、何だいこりゃ』
恐る恐るホテルの一室にやって来たナンシーは、内装の豪勢さに呆れていた。
『そんなところに突っ立ってないで、さっさと入れ。図体がでかいからまるで案山子だ』
『余計なお世話』
僕は先にテーブルに付いて彼女を待ち構えていた。
どかどかと入ってきたナンシーに、脇の席を勧める。彼女が席につくと給仕がディナーを運んできた。それぞれのグラスにシャンパンを注ぎ、下がる。
『落ち着かないね、どうも』
『お前だって、隣国じゃ多少は羽振りよくやってたんじゃないのか?』
『そうじゃなくてさ…何であんたがこんなにお膳立てするのか、わかんないよ。王都の外の高級ホテルまで取ってさ』
『ここは貴人が色々な密会に使うことがよくあるんだ。従業員は口が堅い』
『はーん。私との密会は、そんなに気を遣うことかい』
『そうとも。お前が夢心地で過ごせるよう、精一杯のおもてなしだ』
『…白々しい』
ナンシーはなかなか警戒を解かなかった。一度の交渉でケリがつくほど簡単な話ではない。成功率を上げるには、いかに茶番だろうと雰囲気作りも必要だ。食事を終える頃には彼女も、警戒するのが面倒になってきたが頑張って耐えてる、という
『私らは一人の女を取り合ってるんだよ? 馴れ合う必要なんかない。やるならさっさとやればいいじゃんか』
『ちなみに、お前はその先をどう考えてる?』
『…あんたを呪いながら子どもを産み落とす。子どもの顔を見るたび憎しみが湧いてくるだろうね』
『そーら、そんなのは困るんだ。子連れでビビアンの前に出れば、間違いなく彼女は子どもを溺愛してくれるだろう。でもお前も愛さなきゃその子は幸せになれない。それじゃあビビアンだって幸せじゃない』
『あくまでビビアンが基準かよ』
『当然だ』
天蓋付きの仰々しいベッドの上で、僕は丁寧に説明した。
『母親二人の家庭だぞ? 存在したはずの父親をどう受け止めるべきか、子どもだって物心ついたら気になるだろう。自分の由来を肯定的にとらえるためには、「愛し合って生まれた」という物語が必要なんだ。暴行だの脅迫だのじゃなくね』
『は! まさに今脅迫の真っ最中じゃないか! 私はあんたが憎いし、あんただって私を憎いんだろう? 何でうちらの幸せを考える余地がある!? 矛盾しまくりじゃないか』
『僕の胸中なんかどうでもいいさ。要は、お前が信じればいいんだ。その瞬間だけでも』
『そんなことできるわけ…』
僕は彼女の手を取り、口づけてやった。
『なあ
『…ああ』
『敬愛も愛のうちだ』
『詭弁だ…』
僕は微笑んだ。
『さっきからしょうがない奴だな。あまりにも明白なことは、わざわざ口にしないのがマナーだぞ』
そして、まだ何か言い返そうとする彼女の唇を優しく塞いだ。歪んでる、というつぶやきは無視した。
* * *
――あの日の帰路、未明の風は砂のように頬を削り、路面は紙のように頼りなかった。僕の感情は泥のごとく混沌として身の内に絶えず渦巻き、それを感じる自我が存在することさえも厭わしかった。
歓楽街近くの宿の一室で、僕はナンシーと対峙していた。ランプの炎は不安定に揺れ、放られた金髪のウィッグは自らの意志で踊っているようにも見えた。
『条件がある』
僕が耳元で囁くと、ナンシーは首をねじって見返した。その目には、怖れと憎しみが映っていた。
『ビビアンは、子どもを欲しがっている。それは僕も分かっている』
『ああ』
『だが、彼女は妊娠できない体質なんだ』
『えっ…』
『僕を憎むのはお門違いだったな』
僕は嘲笑った。
『…そんなの、理由の何割かでしかないよ』
ナンシーは強弁したが、形勢は逆転しつつあった。どのみち彼女らは既に一線を越えているのだから、筋の通った理屈なんか出てくるわけない。
でも僕もこれから越える。理屈を失い、憎悪に駆られ、醜い情念をぶつけ合う。
『お前が彼女に代わって産んでやればいい』
ゆっくりと、にじり寄るように、だがはっきりと言う。
『僕の子を』
ナンシーは息を呑んだ。
『い…』
『嫌とは言わせない』
思わず身をのけぞらせたナンシーの髪を、僕は無造作に掴んだ。
『子どものいる家庭、上等じゃないか。彼女の夢を叶えてやればいい!
だが産まれてくるのは僕の子だ。お前たちが子どもを見る時、そこには常に僕がいる。僕の血が流れているのを見ながらお前たちは笑えるか!? それでも愛し合えるのか!? やってみろ!!
お前たちは、自分が犯した罪の証を一生目の当たりにしながら暮らすんだ!』
ナンシーは頭を振って僕から逃れると、うろたえた声を出した。
『い…嫌だよ。あの子は確かに私が産んだ子なら受け入れるかもしれない。でもあんたがその相手だなんてだめだ。あの子が私とあんたの間で悩んでるのに、その私らが関係するなんて…』
『そうだな。僕たちが関係を持ったら、彼女は一体どっちを憎むだろうね?』
ナンシーを目で押さえ込み、僕は言った。
『賭けようか。憎まれも恨まれもしなかった方が、より深く彼女に愛されていることになる』
『…二人まとめて憎まれて
『怖いか』
『……』
『だったら今すぐ引き下がれ』
『嫌だ。私の人生は彼女のものだ。この身を全て捧げても惜しくない。引き下がりはしない』
ナンシーもまた、僕を睨み返した。
『…あんた、相当な腹黒だね』
僕は口角を吊り上げた。
『ああ、それが僕だ』
これは賭けだ。魂を捧げた者と身を捧げた者のどちらが彼女の恩寵を受けるに相応しいのか、そして彼女は僕たちの重みを受けてなお、愛した彼女のままであり続けられるのか。三者すべてを試す賭けだ。
* * *
「…じゃあ、ティモシー」
固まっているナンシーに
「あんたは何か事情を知ってる? あたしに言える?」
「…………」
「ティモシー?」
知らない、と答えるのは簡単だ。だが近い将来に事実は露見する。僕は言わなくても君らはいつか知る。知ってもらわねば賭けにも復讐にもならない。ならこの機会に明かしてしまっても構わないかもしれない。いや待て、事実が露見したらこの子は幸せなのか? せめて僕はこの秘密を墓まで持ってくべきじゃないか? この子はさておき、僕は彼女に幸せでいてほしいのか? いやだめだ、復讐したかったんじゃないのか?
それは、僕がずっと迷い続け、答えを出せずにいたことだった。迷いのせいで僕は行動が一貫してなかった。そして今また混乱の大波に呑まれて身動きできなくなった。
何度か口を開閉したが、結局僕は返答しなかった。ナンシーが強い吐き気を訴え、話が棚上げになったからだ。ビビアンはさっさと切り替え、母体の安全を最優先すると言った。
「それまで余計なことは聞かない。どんな話だったにしろ、ここまで来たらもう産むしかないでしょ。その後で絶対に洗いざらい喋ってもらうからね」
彼女は僕を連れて寝室へ引き上げたが、扉を閉めた途端僕を壁際に押し付けた。僕の襟元を開いて唇を寄せると、首筋に甘く鈍い痛みを感じた。
見なくてもわかる。彼女の首にある痣と同じものが、今僕にも付けられた。
「…これが付いてるうちは、あんたはあたしのものよ。消えるまでは、ここを出ていくのは許さない」
こんなものが何の抑制力になるはずもなかったが、従わせるだけの迫力が声音にこもっていた。
「薄れてきたらまた付けるからね。さあ、ここは地獄になるんでしょ。あんただけ高みの見物なんかさせない。とことん付き合ってもらうわよ…!」
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