第七章 罪人

喪失

『――まったく、僕はなんというものに魅入られてしまったのか!

 最も罪深い者が、最も無垢な顔をして、関わる者どもの運命を絡め取る。君が僕を見つめ、僕の手を取り、僕に囁きかけるとき、僕の意思は幾百の鐘の音にかき消される。風景は砂糖のように崩れ去り、時間は蜜のようにとろけ落ちる。嘆きの底にいる君を、救い出せるのは僕だけだという錯覚に支配されてゆく!

 君は僕にそんな役割など期待していないというのに、そんなことお構いなしに我こそ勇者の役を果たしたいと思わされるのだ…! なんて狡猾なのか! たちの悪いことに、君には一切自覚がない。僕も疑わない、自らが望んだはずだと。君のためなら何だって差し出すし、どんな我がままも聞き入れる。甘美な夢想と引き換えに、無限に供物を要求する強欲の魅魔――それが君だ!

 わかっていながらも、僕は君に尽くすことをやめられない。陳腐な言い方だが、君に出会うまで僕の世界は灰色だった。僕が何者なのか決めかね、人生に意味も誇りも見い出せなかった。君が触れた瞬間に、やっと僕は生まれたんだ。だから、始めから僕は君のものだった。

 さあ、君が満足するまで、僕を捧げ続けよう! 供物を喰らわねば生きられぬ我が身を呪い続ける君のために! 祭壇には魂を捧げた先客が、惨めに食べ残されて転がっているぞ。魂だと? そんな曖昧なもので腹は膨れない。役立たずは引きずり下ろせ! 僕を見ろ、僕を食い尽くすんだ! 跡形もなくすべてを君の奥深くに取り込んで、血肉にするがいい! 僕を君と不可分にしてくれ! それが道理だ! 君に生み出された僕が、君に還ってゆくだけだ――』

(ノエル・シェレトワ遺稿集 #13『ファム・ファタール』)


* * *


 教会の鐘が甲高く鳴り響いた。見上げると、灰色の石壁が覆いかぶさってきそうだった。敷地の裏手で、黒衣を纏って沈黙したままの一団の前には、真新しい穴が掘られていた。

 棺がゆっくりと降ろされていく。僕の隣では、ビビアンが唇を噛みしめ両手をきつく握り合わせながらそれを見守っている。彼女が今にも一緒に墓穴に飛び込むんじゃないかと危ぶみ、手を伸ばしかけたら逆に僕が引きずり込まれそうになった。

 ナンシー、こんな時に冗談はやめろ。僕たちが二人とも消えたら、ビビアンも赤ん坊も生きていけないだろうに。…いや、ビビアンは案外たくましくやっていけるかもしれない。ひょっとしたらその方が幸せじゃないか? あの世からなら、どれだけ恨み言を言おうと聞かせずに済む…。

 ぼんやりしてたら当の彼女が服の肩口を掴んで黙って引っ張り上げ、他の男性の参列者たちも手伝った。泥を払いながら改めて棺を見下ろしたが、箱は箱でしかなかった。司祭が祈りの言葉を唱えながら、穴に一握りの土を放る。僕たちも順繰りに倣う。僕も祈る。お前との賭けには負けたかもしれないが、結局生き残ったのは僕だ。文句なら天上の主に言ってくれ。今すぐ向かえ。二度と僕たちを煩わすな。


 ビビアンは一つまみばかりの土を手にしたまま長い間ためらい、他の者が全て立ち去る頃にようやくぱらぱらと穴のきわに落とした。その姿に、見ないふりしていた胸の痛みが急に強調されてくる。

 あいつは確かに憎いが、ここまでは望んでいなかった。いっそ、僕がこうなった方がましだった。でも、選ばれたのは…。

 首を振り、馬車に乗り込む。御者が「産院に寄られますか?」と聞いてきた。先に乗っていたビビアンが、黙ってうなずいた。そして馬車は動き出した。


 遠くの空では、夏の名残りのように高く立ち上がった雲が、夕日を受けて金色に照り映えていた。僕たちは皆、生まれてくる前はあの雲のもとの庭園にいる。そんな切ない懐かしさを抱かせるような光景だった。

 いつかどこかに、大切な何かを置き忘れてきた気がする。今でもそのどこかにあるのだろうか。もし変わらずにあったとしても、僕の方が変わりすぎてて取りに行けない。


 いつも、夏の終りに何かを失くしてる。

 これからも、同じ日が来るたびにこの痛みを僕は思い出すのだろう。


* * *


 夏の終りにナンシーは男児を出産した。

 産院で、助産師とパットンさんと、そしてビビアンが、痛みに耐えながら悲鳴を上げ続ける彼女に付いて励ましたが、僕は立ち会わなかった。

 それがビビアンなら、もちろん僕は何をおいても権利を行使する。二人で成し遂げてゆくべき重要な出来事の一つとして、外せない資格と責任があるからだ。だが現実の配役は違う。すべきでないことをした代償のように、すべきことをせずにこうして外のできるだけ遠い隅で固まっている。また一つ罪が深まった気がする。


 そしてついに、産声が廊下を駆け抜けて僕の耳に突き刺さった。息をし忘れそうになっている僕のもとへパットンさんがやってきて、ご覧になりますかと尋ねた。断ろうとしたはずなのに、僕はのろのろと立ち上がり後をついて行った。

 部屋の入口に立つと、達成感の余韻のような淡い熱気が漂っていた。ナンシーは疲れたのか、朦朧として周りにされるがままだった。彼女の胸の上に乗せられた小さな存在を、ビビアンが涙まみれになりながら愛おしそうに見つめていた。


「会いたかった…」


 その気持ちがどうしても理解できない。最後列から見る舞台のように、部屋の光景が極限まで縮んでいく。いつか紙吹雪を浴びながら、この光景を思い描いていた。僕の人生の延長線上でこれを体験できると信じていたのに、どこで取り違えられたのか。そこには僕の家族がいるはずだったのに。僕はその一角におさまっているはずだったのに。

 僕は、立ち入ることなくその場を去った。彼女たちは気付かなかった。


 それから幾ばくの日も経たずに、ナンシーの容態は急変した。そして、ビビアンがどれだけ引き止めても届かないところへ行ってしまった。


「ナンシー! だめよ! 起きてよ! あんたはあたしのものよ! もう二度とあたしから離れるなんて許さない! 天上の主にだって渡さない! だからナンシー、帰ってきて!!」


 ナンシーにすがりつき、言葉を尽くしたが彼女は帰ってこなかった。もちろんナンシーだって死ぬつもりなどなかったに違いない。しかし赤ん坊の名付けもしないうちに、天上の主は彼女だけを連れて行ってしまった。

 赤ん坊はしばらくの間産院に預けられ、ナンシーと同室だった女性たちから母乳を分けてもらって生を繋いだ。ビビアンは自分が面倒を見ると言って聞かなかったが、情緒不安定でとても無理だった。何とか赤ん坊から引き剥がしたものの、落ち着いたら絶対に引き取る、孤児院には行かせないと喚いていた。


 家に戻ってきても、彼女は泣きじゃくるか放心するかのどちらかだった。たまにつぶやく台詞は妙に不吉な内容だった。

「火刑よりはましよ…それとも、あたしが心を壊して修道院に行けばいいのかしら…」

 彼女を放っておいて、パットンさんがてきぱきと赤ん坊の産着やおむつを用意して産院を行ったり来たりした。一方で僕は、ダルトン家から昔馴染みの使用人デイヴを呼び、彼をかしらに葬儀の手はずを整えていった。

 こんな時に、待ったなしでやらなければならないことを、型どおりにとにかく進めていくのは救われる。余計なことを考えなくて済む。


 ナンシーを育てた巡業芝居小屋のホランド一座には、彼女とはとっくに縁を切っているから勝手にやってくれと言われた。ノエルとして所属していた劇団の仲間は、ナンシーがノエルであることを知らず、また葬儀を出すほどの義理がある者もいなかった。結局、彼女と関わりが深いのは僕たちだけだった。

 「ノエルの姉」の葬儀を出すと言われて呼ばれたカニンガム氏は、彼女の顔を見て納得していた。やはり彼もノエルの正体に気づいていた。

「あたら才能を失うとは、残念なことだ。作風を真似る者も出てきていたし、活動を中断しなければ一世を風靡していただろうに」

「彼女は再起するつもりでした。いくつか書きかけの遺稿がありますので、引き取っていただけませんか?」

 考えておこう、とカニンガム氏は言った。

 ナンシーは身一つで転がり込んできたため、遺稿以外に遺品と呼べるものはなかった。せいぜい僕たちが与えた下賜品くらいだった。バロックパールのカフスボタンとカメオのブローチを僕たちは再び手にしたが、形見として赤ん坊に持たせるべきだという点では意見が一致した。


 僕は結局別居を思いとどまらざるを得なかった。こんな状況になってしまったこともあるが、もともと出産前から――出ていくと告げたはずの日の翌日に――ビビアンに、出産が済むまでは許さないと命じられていた。彼女が生気を取り戻すまで、僕は彼女の所有物に甘んじることにした。

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