発覚

* * *


 ナンシーは体力を取り戻した。

 あたしのかかりつけの女医ドクターが往診に来てくれて、予定日は夏の終りから初秋にかけてだろうと言った。毎日適度に運動をするようにと、体操も教えて行った。

 これでしっかり出産に向けて取り組まなきゃ、と思ったのに、ナンシーはまたぞろ出て行くと言い出した。あたしはもう一度ティモシーを説得して、彼女をここへ居候させる許しをもらった。

「お願い、彼女の経費はあたしの稼ぎから出すから」

「仕方がないな。さすがに妊婦に野垂れ死にされちゃあ寝覚めが悪い」

「ありがとう、ティモシー」

 ホッとするあたしの隣で、ナンシーがものすごく気まずそうに礼を言った。

「…悪いな」

「ビビアンに免じて許すんだ。僕はできるだけ関わらない」

 ティモシーは、彼女に顔をそむけたまま言い渡した。

「ナンシー、君はなるべく家の裏手側で生活してくれ。僕の来客には劇場関係者も多い。今の状態でノエルだとばれたくないだろう」

「ああ」

「それと、空いた時間で脚本を書き溜めておくといい。出産後はノエルとして再起するんだろう? ストックがあれば立ち上がりが早くなる」

 そして苦々しげにつぶやいた。

「ああ、くそ…こんなアドバイスする義理なんかないのに」

「大した紳士ぶりだ。ご高潔さに涙が出そうだよ」

「勘違いするな。お前が食い詰めたら赤ん坊もまともに育たない。そうなればビビアンにしわ寄せがいくに違いないんだ。そんなことで彼女をすり減らすなんてことは許さない」

 冷え冷えとした台詞の応酬に、背中がぞくりとした。

 またあたしはみんなに無理強いして振り回してる。ナンシーにここにいてほしいと思ってるのはあたしだけだった。


 夜眠りにつく前、あたしはティモシーに重ねてお詫びした。彼は隣で背を向けたまま答えた。

「…まったく、もっとちゃんと線引きしてくれ――と言いたいけど、君には無理だろうね」

「ごめんなさい」

「以前も、悪人に絆されたせいで君自身が大変な目に遭ったってこと、忘れてるんじゃないか?」

「ナンシーは…悪人じゃないわ」

 その台詞にティモシーはぐるりと振り返った。もう明かりを消してるので表情はわからない。彼は、吐き捨てるように短く息をつくと、また背を向けた。

「そんなに彼女が大切か」

「心配なのよ」

 本音を言えば、ナンシーにはノエルに戻ってほしくなかった。そのままで、例えばこの家で雇ったりできないかと思っていた。能天気すぎるけど、ティモシーのマネージャーになってもらってもいい。とにかく彼女と赤ちゃんが、目の届かないところに行ってしまうのは心配だった。


「君はおかしい」


 突然、彼がはっきりと言った。そしてまたこちらを振り向く気配があった。

「君は…君は、ナンシーをそんなにも愛していながら、彼女がどこかの誰かと子作りしてきたってのに嫉妬もしないのか。何ですんなり受け入れて、面倒見ようって気になれるんだ!? 蔑ろにされてるとは思わないのか?」

 あたしはその剣幕に戸惑った。愛しているとかではなくて、ナンシーはもう身内のような気がしていた。さすがに家族と言うほど近しくはないけど、いとこかきょうだいの奥さんのような、気にかけずにはいられない親戚みたいな感覚だ。どう説明したらわかってくれるだろう。

「…ナンシーには身内がいないの。あたしが身内になってあげなきゃ、この先も苦労するわ」

「…………」

 ティモシーは押し黙った。その間がどこか恐ろしかった。隣にある体から、怒りがにじみ出ているのを感じた。

「君の考えはわかった。でも僕に馴れ合いを期待しないでくれ」

「わかってる。そこまで図々しくするつもりない」

「わかってない!」

 彼はがばと身を起こしてあたしに覆いかぶさった。素早く腕を探って手首を捕らえると、掴み上げて枕に押し付けてきた。あたしは慎重に呼吸した。パニックの気配はない。大丈夫、このまま話していられる。

「ティモシー?」

 少しだけ押し返しながら抗議するように呼んだけど、手首を締める力は逆に強くなった。

「ねえ」

 目を凝らしても表情は見えなかった。ふざけてるんだと、急いで信じようとした。絶対に違うだろうから。

 半ばかすれた声で彼が言う。


「知ってるんだ」


 …まさか。

 埋めたはずの可能性が頭をかすめる。あたしの表情だって見えないだろうけど、わずかに手首が跳ねようとしたのがきっと伝わった。

 とぼけたくなくて、彼から決定的な台詞が出るのを待った。


「君が受け入れたのは、僕じゃなくてあいつだってことを」


 ああ、やっぱり。ああ、ついに。

 あたしは爆発に備えた。この体勢では何をされても抗いきれない。でも彼は静かなままだった。

「…あの子とは、もう終わってるのよ」

 一音ずつ区切るような言い方に、あたしははっとした。

「まさか、あんたが追っ払ったの!?」

 疑いようはなかった。そんなことがあれば、ティモシーなら絶対に手を回す。それでナンシーはあんなに落ちぶれて、もしかしたら身売りでもする羽目になって、その結果が今なのかもしれない。


「だがあいつはまた現れた。まさかのこのタイミングで。地獄はこれからだ!」


 手首を掴む力が一際強まった。抗議の身じろぎをしても変わらなかった。でも頬にかかる息遣いは苦しそうだった。それで、爆発を抑えるために縋っているのだと気づいた。

「一体何を味わわされるか、ぜひ二人で堪能してくれ。僕はそこまで付き合わない」

「どういうこと?」

「僕はここを出ていく」

「……!?」

 驚きで今度こそ暴れたけど、全身で押さえつけられて腕も腰も動かせなかった。

「ここはあんたの家でしょ!? 出てくなら…痛っ…」

「妊婦だの乳飲み子だの、叩き出したら評判に傷が付く。そう言って説得したのは君の方だろ」

「けどあんたが出てくことは…」

「去年のうちから考えてたんだ」

 あの挙動不審や素っ気なさは、そのせいだったのね。

「やっと決心がついた。三年別居すれば…」

「離婚する気!?」

「あいつの身内になりたいんだろう? バツ2になって、と再婚すればいい。今度は待望の子ども付きだ」

「やめて!」

 戒めはやっと緩んだ。でもとんでもない話のせいで息ができない。

「ほん…本気で言ってるの…?」

「僕が持っていないものをナンシーは持っている。君が望んでやまないものを。僕がいなければ、君たちは完璧になれるんだ…」

「何言ってんの!?」

 あたしだって色んなことを諦めて折り合いつけてあんたを選んだのに。何度も選び直したのに。

「いや。別れない。認めない」

「何もかもは手に入らないって言っただろ!?」

「いや」

 自業自得とわかってても懇願せずにいられない。

「もう、あたしを愛してないの…?」

 なのに陳腐な台詞しか出てこなくて、自分でも嫌になる。

 ふと、胸元に重みを感じた。少しの間、彼はそこに額を預けて何かを耐え、やがて頭を動かした。

 首筋が彼の唇で鋭く絞られた。痛くはない。その場所よりもはるか上、耳たぶの裏がじわりと熱くなった。その途端彼はあたしから遠ざかり、ベッドの端を軋ませながら元通りに横たわった。背中に手を伸ばすと、払うように身を震わせた。話は終わりだった。


 耳元からうなじまでが濡れて急速に冷えていく。あたしの胸も凍りつきそうだった。ぎこちなくベッドを降りて、這うようにして壁際にたどり着き、衣装部屋クローゼットの扉を探し当てて入り込んだ。

(うう…!)

 顔がぐしゃぐしゃに縮んでいく。夜着の袖を口に押し当てて、声を殺して泣いた。

 できるなら、どれだけみっともなくてもいいから縋りついて許しを請いたい。

 どうにか思い直してほしい。


 殿下の前で誓ったじゃないの。

 どんな時も二人で支え合って、生涯を共にするって。

 まさに今が、そんな時じゃないの? 今こそ二人で乗り越えるべきじゃないの?


 でもそれを言う資格はあたしにはない。

 乗り越える力を彼から奪ったのは、あたしなんだから。

 いつもあたしは彼から奪ってばかりだ。

 譲歩して我慢して身を切って尽くさせて、なのにあたしは尽くし返してやれてない。

 悲嘆に暮れるなんておこがましい。

 いつか見限られるって、心の底で怯えてた。

 その日が来ただけだ。


* * *


 目を覚ますと、いつの間にか夜が明けていた。

 あたしは衣装部屋クローゼットの中で寝落ちしてた。

 起こした肩から夏掛けが滑り落ちる。寝室を見やると、ベッドは空だった。

 ドレッサーの鏡には、史上最低に見苦しい姿のあたしが映っていた。髪はぼさぼさで瞼はぼんやりして、頬はカーペットの跡ででこぼこして、そして首筋には、赤黒い痣がくっきりと浮かんでいた。

 痣を付けられるのは初めてじゃないけど、消えてほしくないと初めて思った。これがあるうちはあたしは彼のものだ。消えたらまた付けてほしい。三年付け続けてほしい。何度付けてもそのうち消えてしまう、なんて儚い愛の証。……そうか。彼があたしを愛した証として、この体に残せるものはこれくらいしかないんだ。もっと確かなものとして、あたしが受け止めて育んでいくことができない。

 今の境遇そのままだ。彼が注ぎ続けてくれたものをあたしはちゃんと受け止めれなかった。だから、あたしたちが強く結びついてたはずの時間も、この痣みたいに消えていく。

 また泣けてきたけど、目が痛いので我慢した。

 夏掛けをベッドに返し、ガウンを羽織る。ティモシーはどこだろう。書斎にもいなかった。そっと階段を降りてサロンを覗くと、愛用のバイオリンもトランクもちゃんとあった。昨夜の話はきっとただの脅しだ。詰めていた息を吐きながら、そう願った。気配を求めて奥の廊下に向かい、ナンシーの部屋の前で突き止めた。二人が話してる。


「…動いた」

「わかったらさっさと離れろ。暑苦しい」

「喋るなよ。お前の体だってことを思い出すじゃないか」

「思い出せよ。私を憎んでるんだろう?」

「ああ、憎いとも。でもこの子は別だ」

「私から産まれるんだぞ?」

「そしてビビアンと育てる予定なんだろ。この子は彼女の子になるんだ。何も知らず、無垢なまま産まれてくるべきだ」


 関わらないと言ったくせに、彼が胎児を慈しむ気があることにあたしはひどく驚いた。二人の気安げな会話にも。


「これだけお前の息がかかってたら、すぐさま曇ること請け合いだ。ぐずぐずといつまでも邪魔しやがって」

「僕が消えたところで、お前たちの幸せは保証されないよ。まったく、産まれるのが待ち遠しいくらいだ」

「…支離滅裂だ」

「うるさい」


 でも内容はやっぱり不穏だ。二人の間に何があったんだろう。

 唐突に彼の言葉を思い出す。


『決して僕に気づかれてはいけないよ』


 ――まさか。


『どんな腹黒な復讐を考えるか…』


 いくつかの可能性が、ひとつに組み合わさる。

 でもまさか。


『合意だよ。一種の取引みたいなもんだ』


 でも…まさか…。


 どうしよう。

 今すぐ踏み込んで、二人を問い詰めるべきか。

 あたしはドアノブをじっと見つめた。

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