想定外
* * *
「もう! あんたは、前はいなくなったと思ったら隣国行って男になって帰ってきて、今度は隣国に行くって言いながらここにいてこんな姿になって…!
いつも勝手に消えちゃあ変わり果てた姿で現れるんだから!」
ナンシーをとにかく家へ連れ帰ると、あたしは彼女にまくし立てた。
「まだ顔色が悪い。そっとしといてやろう」
ティモシーはあたしを止めると、パットンさんが空き部屋を整えるのを手伝いに行った。あたしはキッチンへ入り、しばらくまともな食事ができていないという彼女のために薄いスープを用意した。
器をトレーに乗せて居間に戻ると、ナンシーは眠っていた。髪は不揃いに伸び、顔もげっそりしていた。お腹はかなり大きく、臨月が近いんじゃないかと思わせた。
本当に今までどこでどうしていたのやら。妊娠したからノエルでいられなくなったの? 相手は何者なんだろう。こんな状態にして引き取りにも現れないってことは、ろくに面倒も見ずそばにもいないのだろう。ひどい人間だ。
顔に落ちかかっている前髪をそっと払うと、ナンシーは目を開けた。黙って不安そうにあたしを見ている。
「ナンシー。大丈夫よ、あたしよ」
「ああ…済まないね…。あんたに会うつもりじゃなかった」
「一年いないってこういうこと? 秘かにどこかで産むつもりだったの?」
「ごめん、事情は聞かないで。落ち着いたら出て行くからさ」
「当てはあるの?」
「……何とかなるよ」
「ないのね。だめよ、そんな体で。ここにいなさい。百歩譲っても、『落ち着く』っていうのは無事に出産を終えるってことよ」
「……」
ナンシーはまた目を閉じて、静かに涙をこぼした。
「さあ、少し口に入れなさい。本当は二人分食べてなきゃだめなのよ」
彼女がゆっくりスープを啜っているうちに、部屋の支度を終えて二人が戻ってきた。部屋は、以前パットンさんが住み込みだった時に使っていたものだ。使用人の部屋なんてと思ったけど、ティモシーの指示だった。
食事を終えたナンシーを、パットンさんが連れて行った。彼女は四人の子持ちで妊婦の世話にも慣れている。
あたしとティモシーは、込み入った話をするために上階に上がった。書斎で彼は机の前の椅子に掛け、あたしは手前のソファに腰を下ろした。ぎこちない沈黙が漂う。
結婚二年目に入ってから、あたしたちの関係はまた少し変化していた。落ち着いた――と言えば聞こえはいいけれど、彼からは以前ほどの情熱を感じられなくなっていた。そりゃ付き合いは長いし、お金を稼いで生活を営むことが日常の中心になって、二人でいることはただの前提になったら、付き合いたての恋人みたいにのべついちゃついてる暇はない。
それに彼はどうやらスランプ気味らしく、ピアノの前に座ったかと思えばすぐ書斎に引っ込んだり、散歩に出かけて長いこと帰らず挙げ句に演奏家仲間のところで時間をつぶしていたりして、それでようやく仕事を仕上げているといった具合だった。
そんな調子だとあたしに丁寧にかまう余裕もなく、何か声をかけてもどこか上の空なことが増えた。以前ならちゃんと立ち止まって顔を見て話をしてくれたし、お互いの予定や意見が少しずれてると感じたら話し合おうとしてくれてた。今や、部屋を横切る際に自分の用を一方的に連絡したり、こっちがまだキッチンにいるうちに玄関から言い放って出ていったりといったありさまだ。
あたしも勤め先の役所では頼まれごとが増えるようになったので、何だか家が気詰まりだからと早めに出勤したり遅くまで居残ったりしがちになってた。職場の人たちに言われてしまったけど、これってつまり倦怠期ってものなんだろう。
出会ったばかりの頃は、ティモシーは釣った魚に餌をやらないタイプだ、と勝手に判断してた。彼との結婚を決めた時もまだ少し疑ってはいたのだけど、結局そんなことはなかった。だから倦怠期なんて無縁だと思ってた。
秋頃からのティモシーの様子を振り返ってみると、別の可能性が思い当たる。……いくつか。
事実だったとしてもあたしは何か言える立場じゃない、そういう可能性がいくつか。
だから可能性についての考えも、埋めておくことにした。そこに目を向けなくても日常は続けられるし、わざわざ目を向けるような問題なのかどうかわからないし、目を向けないでおけば問題なのかどうかと考えなくてもすむから。問題が問題としてはっきりと立ち塞がってくるまで、考えたくなかった。
あたしはティモシーを見た。ティモシーはあたしを見ていない。適当にソファの陰か床に目をやり、何を言おうか考えてるようだった。あるいは、あたしが何か言うのを待っていた。
話次第では、埋めたものを掘り返す羽目になる。あたしは恐る恐る口を開いた。
「…それで、どうしてナンシーのことを知ってるの」
彼は、ナンシーがノエルの顔をしていても驚かなかった。取調官にも余計なことは言わなかった。だから、ナンシーがノエル本人であることはとっくに承知していて、姉だなんてのはあの場の出まかせだということははっきりした。
「君が以前、話してくれただろ。…経験があるのかって話をした時に」
確かに、そんな話をしたような覚えがある。でも、どうしてノエルがそのナンシーだと知ったのか。彼女の方から話したんだろうか?
いや、あたしこそノエルと初めて会ったあの公演初日に、真実を話してしまうべきだった。倒れた時でも良かった。でも言えなかった。終わったはずのことを、終わったままにしておきたくて。
この話はやぶ蛇になりそうでためらっていると、彼の方から別のやぶ蛇が持ち出された。
「それより、君は確かにブローチを彼女に渡したんだね?」
「うん」
「何で勝手に!?」
「…何かで困ったら、あれを出せば国の誰かが助けてあげられると思って…」
瞬間、彼は机を叩いて声を荒らげた。
「確かに善良な市民と有能な警察のおかげで助かったけどさあ!」
思わず肩を跳ねさせたあたしを見ると、口の端を引き絞ってさっと顔を背け、声量を戻してつぶやいた。
「…何て危ない橋を渡るんだ」
「でも、それはティモシーも同じでしょ。ノ…ノエルが出国する時に捕まったらどうする気だったの」
「だから一筆書いてる」
「あたしも一筆書いたわ」
「……」
「……」
また気まずい沈黙が流れた。あたしは気を取り直して、ナンシーのために話し合いをしようとした。
「ねえ、お産が済むまで彼女を置いてあげられない?」
「…そこまでの義理はないよ」
「妊婦よ!?」
「妊婦を保護できる施設もあるだろ」
「冷たすぎない?」
「君の話では、付き合ってすぐ彼女に一方的に捨てられたんだろう? 昔の
ティモシーは、忌々しそうに言った。
「ミモザを送り付けた件だって許せない。許せないことだらけだ!」
ひゅっと喉が詰まった。「ミモザ」という言葉のせいか、隠された意味のせいか、その後の隠すべきことのせいかわからない。
「……」
彼は、大きなため息をついた。
「…怒鳴って悪かった。想定外のことが起きて、僕も混乱してるんだ。少し一人にしてくれないか」
「…うん」
* * *
ナンシーは、お腹の子の父親については話そうとしなかった。
「ねえ、もし辛かったら答えなくてもいいけど、…合意の上でのことなの?」
「ああ、合意だよ。一種の取引みたいなもんだけど、でも決して暴行とかじゃない」
「心配だわ…言っちゃなんだけど、絶対まともな関係とは思えない」
「とにかく、あんたがわざわざ知らなくたっていいような相手だから、気にしないで」
そう言って彼女はあたしの頭を撫でた。本当に、一体何が彼女に起きたんだろう。説明させてもさっぱり要領を得なかった。
「筋書きがどうにも気に入らないから、書き換えてしまおうと思ったんだよ。リスクはあったけれど、演出だってアドリブにしてはいい線行ってた。まさか出資を受けることになるとは思わなかったけど」
「…仕事で何か揉めてたってこと…?」
ナンシーは自嘲するように肩をすくめた。
「解釈はどうとでも。間もなく新たな舞台の幕を上げてやろう、って算段だったけど…ちょっと早まっちまったな」
「? ? ?」
やっぱり分からない。どんな脚本を書いてたか知らないけど、こんな風にお茶を濁されるなんて、あたしはやっぱり彼女の人生にとってはただの脇役なんだろうな。…お互い様だ、あたしに分かる話をしよう。
「…あたしと別れたのも、子どもができたから?」
「ノーコメント」
「産まれたら、父親はちゃんと引き取ってくれるの?」
「……」
「ちょっと、やっぱり父親を言いなさい! あたし、庶子を作って放っとくような父親は絶対に許さないわよ!?」
「まあ、あんたはそう思うだろうね」
「許す気!?」
いきり立つあたしをなだめるように、ナンシーはお腹をさすりながら話を変えた。
「…この子のことはどう思う?」
「産まれてくる子は何も悪くないわ。皆に愛されるべきよ。あんたが産む子なら、あたしも愛するわ」
「それなら別にいいんだ。この子さえ愛してくれるなら、私は恨まれてもいい」
「誰があんたを恨むの。親が人から恨まれてるのも、子どもにとっては辛いわよ。だから、あたしだったらあんたもまとめて愛するわ」
「さっきと矛盾してる。それとも、父親だけ除け者かい?」
「…ちゃんと責任取るなら、話は別よ」
彼女は苦笑すると、もう休ませてくれとあたしを追い出した。
横になりながら、彼女はつぶやいてた。
「誰が何の責任を取るんだろうね…」
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