2
下賜品の持ち主
冬の初め、ナンシーから離別の手紙を受け取った。
また隣国に一年ほど行くのだそうだ。
『もう相談には乗ってやれないけど、戻ってくる頃には旦那との問題が解決してることを願うよ』
前みたいに消息不明になるのでなく、帰ってくる意志があるのは良かった。ブローチを渡した時、彼女も潮時だと思ってたのかもしれない。寂しさはかすかでしかなく、ようやく終わったことにホッとする気持ちが勝っている自分は、また罪が深まった気がした。
ノエル・シェレトワも、冬公演の脚本を仕上げてそれを最後にハリー&カニンガム劇場を去ったらしい。
「脚本だけ置いてっても、舞台監督が困るんじゃないの?」
「空いた席を狙って若手が次々現れるから、カニンガム氏は気にしないだろう」
「そういうもんなのね。あんたは残念?」
「…別に。餞別をやったし、せいせいしたよ」
「そう」
ティモシーは、秋にひどく気落ちして帰ってきた日があって、それ以来何だか元気がない。
時々夜更けに、気づくとベッドから抜け出して書斎にいた。小さく絞ったランプのかすかな明かりが、机の前でうずくまるように座る姿を浮かび上がらせていた。何かを必死で耐えている。やっぱり誰か親しい人でも亡くしたのかと思ったけど、踏み入ることはためらわれた。たぶんあたしには知られたくないことなんだと、あの背中が伝えていた。
その一方で、しばらくの間あたしに対していっそう優しくなった。張り合いがないくらい素直に言うとおりにしてくれるけど、代わりに冗談や軽口にあんまり付き合ってくれなくなったのは少し妙だった。気づくとあたしを見つめてる――それは珍しくないことだったけど、以前みたいな嬉しそうな明るい眼差しや愛おしさを込めた優しい光はあんまり感じられず、……何だろうか? 泣きたそうな、諦めのような、なんとも言えない曖昧な笑みを浮かべていた。
あんまりにも不審だから、さすがに聞いた。
「ねえ、まさかあんた、不治の病ってことはないわよね!?」
「まさか! 至って健康だよ。少なくとも病気で死んだりしないから安心して」
「ならいいけど…。でもね、悩みがあるなら話してね。あたし、あんたが苦しんでるのに気づかないでのうのうと暮らすなんてやーよ。ちゃんと心配させて、分かち合わせてね」
「…ありがとう。君を妻にできて、僕は幸せだよ」
彼はにっこりして言った。昔から、しつこい追求をかわすときはこの口ぶりなのを知ってるから、そこで会話を終わらせた。でも、どこか痛みをこらえてるような印象はやっぱり残った。
年の暮れが迫る頃、あたしたちは初めての結婚記念日を迎えた。ハネムーンめいた遠出も結局することはなく、家で二人きり水入らずで過ごすことにした。
ティモシーだけを見てればいいと思うと、とても心が落ち着いた。もうこれ以上何かに邪魔されたくない。切実にそう思う。
あたしを、あたしたちの暮らしを脅かすものはもうあたし自身だけで、それも今は鳴りを潜めた。ナンシーが戻ってきたら、きっと乗り越えなくちゃならない。そのときに備えるために、今を見つめてしっかりしなきゃ。何を失くしてもティモシーだけは手放したくない。再び開いてしまった半分の世界の扉を、今度こそ閉じる。きっと閉じる。未来のあたしに約束する。あたしは自分が、欲望に正直で流されやすくて一貫性がないってわかってる。だからいくら決意したつもりでも確証はないんだけど、努力はしたいと思ってる。
ティモシーは、あたしに新しいピアノ曲を贈ってくれた。
沁み入るように美しい
気づけば、彼とは学園で出会ってからもう十年近く経つ。
あの腹黒小悪魔美少年は、こんな立派な音楽家になった。
みっともなく右往左往してひどいことばかりしてきたあたしを、許して悪夢から救い出し、ずっとひたむきに愛してくれている。
ティモシー、あなたほど尊い人はいない。
あなたの妻にしてもらえて、あたしこそ幸せだ。
あなたの懐の深さに比べたら、あたしの不満なんて些細過ぎる。
もう、よそで女をとか馬鹿なことは言わない。二人で穏やかに寄り添って生きればいいんだ。それだけで良かったんだ。
あたしの罪は、どこか深くへ埋める。いつでも全てを打ち明けるのが正しいわけじゃないとあなたから教わった。償えずに抱えていくこと、それがきっとあたしが受けるべき罰だ。
* * *
「やあ、ご足労ありがとうございます」
事務的で素っ気ない一室に入ると、取調官が出迎えた。
ティモシーとあたしは、朝から警察の呼び出しを受けていた。またシーズンが巡ってきて、それも後半へ差し掛かっていた。
「お忙しいところ申し訳ない。少しお話をお聞きさせていただきたい」
取調官はあたしたちに椅子を勧めると、テーブルの上に置かれた無骨なケースを開けた。
「ダルトンさん、こちらはあなた方の持ち物でお間違いないですかな?」
中には、一組のカフスボタンとカメオのブローチがあった。
ブローチは確かにあたしがナンシーにあげたものだけど、カフスボタンには見覚えがない。
「…ボタンは、以前は僕のものでしたが、友人に譲りました」
ティモシーの答えに、思わず顔を見た。でも逆に、彼はあたしにも答えろと目で合図した。
「奥さん」
「は、はい。ブローチもあたしが持っていましたが、…友達にあげました」
「なるほど。盗難ではない?」
「とんでもないです!」
取調官は、ふーむと唸った。
「友人…の身に、何かありましたか?」
ティモシーが怪訝そうに聞いた。
取調官は、立ち上がるとあたしたちを連れて部屋を出た。廊下を巡ってとある部屋の小窓をそっと開け、中の人物に見覚えがあるかと聞いてきた。そこには、身なりが良くて口髭を蓄え紳士然とした中年男性が座っていた。あたしたちは二人とも首を振った。
取調官は次の部屋でも同じように小窓を示した。今度は、何だか素性の悪そうな男が二人、捕縛されて悄然としていた。こちらもやっぱり見覚えがない。
先程の部屋に戻ってくると、取調官は事情を説明した。
最初の部屋にいた男性は古物商で、次の部屋にいた二人組の男から盗品らしき品を持ち込まれた。明らかに高級品で、調べると王太子妃殿下に関わるものである可能性があり、通報した。それぞれの箱を詳しく調べると、来歴を示したメモが隠されていたため、そのサインの主――つまりあたしたちに連絡が来たというわけだ。
「二人組は素人だ。どうも食い詰めた失業者か小作人みたいだな。盗品に足がつかないよう細工する知恵もないし、故買屋じゃなくてまともな古物商に持ち込んでる」
「誰から盗んだんです!?」
じゃあ、ナンシーはあの二人に襲われたってことなんだろうか。それとも、手放して他の持ち主が…?
「お二人のご友人の名は?」
「ノエル・シェレトワです」
「…ナンシーです」
ノエル!? ノエルにやったの? じゃあ、これが餞別の品だったの?
それより、そもそもこのカフスボタンはいつの間に手に入れたものなんだろう。
問い質したいけど、取調官の前で夫婦喧嘩するわけにもいかない。
「ほう、ほう。あの二人組はこれらを女から奪ったと言っています。女の身柄も確保してあり、ナンシーと名乗っています。ノエルさんの行方が心配ですな」
そうだ、ティモシーがノエルに渡したものを
でも、それを明かしてもいいものだろうか。
迷っているとティモシーが口を開いた。
「ナンシーはノエルの姉なんです。彼は隣国へ行ったので、発つ前にナンシーに預けたのではないかと思います」
な、な。
あたしは余計なことを言わないよう、口をぎゅっと閉じた。
「なるほど?」
「ナンシーは被害者です。釈放してやって下さい」
「いいでしょう。あなた方、身元引受人になっていただけますか?」
「それは…」
「なります! あたしが引き受けます!」
ティモシーはちょっとためらったけど、あたしはテーブルに乗り上げんばかりにして申し出た。取調官は一瞬顔を引きつらせ、でも案内することにしてくれた。今度は隣接する施療院へ向かった。
道々であたしはやっとカフスボタンの出どころを聞けた。
「去年、年明けに妃殿下のために王宮で演奏会をさせていただいたの、覚えてる? あの時ブローチと一緒に賜ったんだよ」
「でもあんた、ブローチしか出さなかったわ」
「あのカフスボタンはパールだ。その…あの頃の君、大変だっただろ。パールは縁起が悪いと思って、見せないことにしたんだ」
パールは縁起が悪い?
…ああ、そういうことか。気遣ってくれるのはいいけど、ちょっと気を回し過ぎな気もする。それに下賜品を妻にも秘密にするのはやり過ぎじゃないの? 御礼を申し上げられないじゃない。
「君こそ、ブローチを何でナンシーなんかに」
「え、何でナンシーを知ってるの」
「しっ」
取調官には、二人ともナンシーと面識がある理屈になってるんだっけ。
施療院の病室に入ると、大分やつれたナンシーがいた。あたしたちに気づくと、顔をこわばらせた。
あたしも顔をこわばらせた。
ナンシーは、妊婦になっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます