終章
フィナーレ
「この辺で休憩しよう」
ティモシーの声で、あたしは目を覚ました。
だだっ広くて退屈な野山を馬車の窓から眺めるうちに、うつらうつらしていたらしい。
その間に景色は多少変化し、丘の切れ目に水辺が見えていた。
「少し手足を伸ばしてらして下さい。坊っちゃんはわたしが見てますので」
パットンさんが、バスケットの中で眠っているノエルに手を置いて促した。
あたしは礼を言って日傘を手に取り、馬車を降りた。ティモシーは先に降りて待っている。
デイヴさんが御者台から降りて、馬の様子を見始めた。
あたしたちは、あたしの実家オリアリー子爵家に小さな親戚を紹介するために、首がすわって離乳もできたノエルを連れて、故郷のカランを訪ねようとしていた。
ティモシーが両腕を広げて伸びをするので、あたしも真似をする。
明るい緑といい匂いの風が深呼吸を誘う。夏が始まろうとしていた。
彼の差し出した腕に絡まり、日傘を広げて歩き出す。
「子爵が事情を詳しく知ったら、僕は殺されるんじゃないかな」
「詳しく知らせなきゃいいだけよ。そういうのは得意でしょ」
この半年あまり、あたしたちは努めてノエルを中心にして暮らしてきた。
何をするにもあの子のためになるかが基準になってて、会話の大半もあの子にまつわることだった。
あたしたちの目はお互いではなくいつもあの子を向いていて、あの子のためになるからお互いを
ノエルは、
ティモシーは時々うなされた。
あたしは、彼がかつてそうしてくれたみたいに、あたしの体温で彼を守った。
あたしたちの愛は事実の重さに耐えようとしたけれど、隙間に流れ込んだ不信のフィルターは本来の鮮やかさを奪った。
相性の良さを確信し、無敵だと思っていた時代はもう遠い。
まだ何も始まっていなかった頃の、期待が木漏れ日のように見え隠れして輝く、あんな瑞々しさは更に更に遠い。
あの頃の気持ちを、捨てたつもりでどこか奥深くに隠し持っていた。もう一度取り出してからは、血反吐を吐きそうなくらい苦しくても守り通したかった。削れてもへこんでも手放すことはしなかった。でも今や色々な情念がこびりついてしまって、核にあった輝きを見ることができない。
きっと彼も、同じ思いだ。
「…あれは何をしてるのかしら」
「さあ」
水辺では何人かの男が水揚げのような作業をしていた。
ここはカランへ続く街道のそばで、低地のためあちこちからの川が流れ込んでちょっとした湖沼地帯になっていた。
「行ってみようか」
気まぐれに近寄って声をかけてみると、彼らは真珠採りをしていると教えてくれた。
「そんなのここで採れるの?」
「そう言えば妃殿下がそんなことを仰ってたな」
「へえ、この辺りの貝から淡水真珠が採れるんで、養殖できないか調査せいとのお達しで」
作業員は水槽に移してある貝をいくつか探った。
「海のもんとは違って小粒ですが色が良く、それとあれこれ変わった形のもんがよく採れるんでしてさあ」
「ん? つまりバロックパールかい」
「左様です、旦那。ほら、これなんかも面白いですよ」
作業員は、手の平に小さな白い粒を乗せて見せてくれた。
真ん丸ではなくて、
「核が二つくらいあるんじゃねえかと思います」
「面白いわね。一体何を食べたのかしら?」
「さー、それはこれからの研究ですなあ。こいつはカランから川が流れ込んでる辺りから採ったんですがね」
「……」
あたしはその不思議な粒を眺めながら勝手な想像をした。
「…十年前、あたしはカランの川べりで大切なものを落としたの。ひょっとしたらこの貝はそれを食べたのかもね…」
どう思う? と聞こうとしてティモシーを振り返ると、茫然とした顔がそこにあった。
彼は咄嗟に口元を押さえたけど、両目からは構わず大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼が涙を流すのを、初めてまともに見た気がする。
「僕も…十年前、あそこで失くしたものがあるんだ…」
あたしはもう一度真珠を見た。
まるで二つの珠が、深くくっついて溶け合おうとしているかのような姿だった。
彼が想像したことを、あたしも想像した。
この小さな粒に託したい物語がある。
泡のように消えていくはずだった二つの思いが、そっと守られて、長い時間を積み重ねて。そしてついには分かちがたいひとつの形を成して、いま目の前に。
でも、思いなんて形のないものを核にできるわけない。わかりきってる。それでも…。
「偶然…よね?」
「偶然も意味を与えれば奇跡になる」
夫は、作業員から真珠を買い取った。それは、あたしが差し出したハンカチに大切にくるまれ、彼の胸ポケットに収まった。思わず手を伸ばして確かめるようにその胸に置くと、彼も黙って自分の手を重ねた。
幾重もの布越しでは形も分からないはずなのに、そこには確かに温かな塊があった。重なるあたしたちの手には、それぞれの指に同じ指輪があった。間近にある彼の瞳の中には、彼を見つめるあたしがいた。瞬きした瞬間に水辺にさざ波が立ち、彼の瞳に輝きを与えた。きっとあたしの瞳にも。
この瞳を知ってる。この光を知ってる。懐かしくて、眩しくて、切ない。今度こそ、これを壊したりしない。
「ビビアン」
守るように力を込めたあたしの手を、彼もまた軽く握り込んで言った。
「子爵の屋敷に行く前に…寄り道したいところがあるんだけど、いいかな?」
「うん」
あたしもそれを言いたかった。
何度も頭を下げる作業員に手を振り、あたしたちは馬車へと引き返した。
馬車の傍らの木陰で、パットンさんの腕に抱かれてご機嫌なノエルを、デイヴさんが覗き込んでいた。
幸せの象徴のような光景だった。
そこへ向かって二人で歩いてく。どちらからともなく次第に足が早まる。
あたしたちは、あの夏の日の川べりで同時に失くしたものを、ようやく取り戻した。
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