決断(後)

* * *


 ビビアンは、適当なパブの二階にある安宿を偽名で取っていた。

 僕はパブの主人に睨まれたので、「話すだけだ、すぐに出る」とコインを握らせて彼女について上がった。

 個室には傾斜した壁際に簡素なベッドとサイドテーブル、入口の脇には小さな机と丸椅子があった。火の気はなく、彼女はキャンドルをサイドテーブルに置くとすぐに両手に息を吐きかけてこすった。

 僕はいったん階下に降り、お湯の入ったやかんと桶を持ってきた。ベッドに腰掛けていた彼女が慌てて立ち上がる。

「あ、自分で…」

「いや、いいよ」

 僕は構わずその足元に桶を置き、また彼女を座らせた。やかんから桶に湯を注ぐと、ふわりと白い湯気が上がった。ビビアンが思わず顔を寄せる。熱湯と言うほどの温度ではないが、冷え切った頬や指先には火傷しそうに感じるだろう。

 僕は彼女の靴と靴下を脱がせ、絞ったタオルで氷のように冷たい足を丁寧に拭いてやった。それから両足をタオルで包み、ゆっくりと桶の中に浸からせた。

 はー、と彼女が息をつく。僕がお湯の中で彼女の踵を掴み、軽くマッサージしてやるのを黙って好きにさせている。さっぱりして温まったところで桶から上げてやると、彼女はベッドに横座りになって素足をコートの裾でくるんだ。

 僕は桶を片付け、丸椅子に腰掛ける。


「で、何があった?」

 キャンドルに浮かぶ彼女の顔の影が濃くなった。

「キースが…」

 彼女はためらいがちに口を開いた。

「コテージを閉鎖したの、改築を口実に」

 コテージの貸主はキースだから、否応もない。彼女は使用人共々屋敷に移され、戦々恐々とした生活を余儀なくされた。


『プレスコット伯爵一族の血を繋げていくために、俺は妻を娶らなけりゃならん。そしてそれは、お前でなければいけないんだ』

 案の定キースは再婚を迫ったが、彼女は頑として拒んだ。数日してキースは、一族の資産を保管した部屋へ彼女を案内した。

 先代伯爵夫人だった彼女は当然その部屋にあるものはほとんど知っていた。だが、肖像画のギャラリーは全て見たわけではなかった。傷んだ肖像や何か不始末をした者の肖像は外されていて、部屋の隅にまとめられて布を被せられていた。例えば先代の妹は放埒な性格で、未婚のままに出奔してしまったとのことで、そこの壁は空白になっていた。

 ビビアンはそういった負の歴史には関心がなかったし、通常は先代が施錠していたので、それらまでは確認していなかった。

『実は俺の母親も一族の人間でね』

 キースはその外された肖像画の中から一枚を選び、本来架けられていたはずの場所に立てかけた。その肖像画の女性はビビアンによく似ており――

『先代は最愛の女性だと言ってたが、俺にとっても最愛だったんだ』

 立てかけられた場所は――先代の妹の位置だった。キースはしばし額を見上げると、きっと振り返った。ビビアンに向けるその眼光は、最愛という言葉からは程遠いように彼女には感じられた。

『わかったか? お前は一族に組み入れられる運命なんだ。諦めろ、そして俺との子を作るんだ』


 僕はしばし、キャンドルの芯が燃えるわずかな音を聞いていた。

 少し思考が追いつかない。

 先代伯爵の最愛の女性が、すなわちキースの母親でもあることはわかった。キースが母親を非常に慕っていたこともわかった。あと一つ二つ、わかってはいけない情報があった気がする。


「あたし、あたし――さすがに耐えらんなくて。あんまりにもえぐすぎて…」


 ああ、やっぱりえぐいのか。ぼんやりと頭の中で復唱する。

 キースは明らかにおかしい。だが、先代もおかしい。二人とも、とうにいない人間の面影をビビアンに重ね、そして二度と逃すまいと、常軌を逸した方法であの地に閉じ込めようとしている。愛し方が狂っている。


「あそこにいたら正気を保てる気がしない。でも、キースからも逃げ切れない」

 彼女は震える声でつぶやいた。それで重要なことに気づいた。

「あいつは、君が逃げたことに気づいてるのか?」

「多分ね。一応目くらましはしたけど…」

 彼女はほぼ軟禁された状態だったが、キースが数日間の出張に同行させようとしたので、仮病で留守番することにした。

「よく許されたね」

悪阻つわりのふりをしたの。お待ちかねだからそりゃ大事にするでしょ」

 少し悪どくないか?とは思ったが黙って聞いた。彼女はキースが出払うとすぐさま抜け出した。

「書き置きには『ティモシーとも別れたしこの家には絶望しかないから実家に帰る』って書いたから、すぐには王都に来ないと思う」

 彼女の実家のあるカラン地方とプレスコットはかなり離れており、最短でいける街道は王都を経由しない。だがキースは大人しく騙されてくれてるだろうか。実家にいないとわかれば、必ず僕を締め上げに来るだろう。

「どうしてこうなっちゃったのかなあ。あたし、この世界であたしなりに運命を切り開こうと頑張ってきたつもりなんだけど…」

 彼女は、ぽつぽつととひとりごちた。まつげが小刻みに揺れている。

「ティモシー、た――」

 一瞬だけ僕を見ると唇を噛んだ。すぐに目を逸らして、言い直す。

「――あたし、どうしたら助かるかなあ。何かいい知恵ある?」

 彼女は、まるで庭木の剪定でも相談するかのような気楽な口調を装った。自嘲のような諦めのような曖昧な表情を浮かべ、僕の反応を待っている。

「……」


 言ってくれ。

 『助けて』って言ってくれ。


 全身で叫びたかった。わざわざ寒い中で待ってまで、僕に会って話を聞かせて、それは僕に助けてほしいからに違いないのに。

 でも言えなくさせたのは僕だ。彼女が抱きしめて欲しかったときに、そうしてやらなかったから。

 今更頼りたいと願わせるのは傲慢だ。

 それに、願われても僕には応えてやれるかわからない。

 僕はヒーローじゃない。颯爽と現れてキースをぶちのめすとか、公明正大な方法で事態を収めるとか、そんな力はない。

 この期に及んで、助けるなら僕自身にもメリットがあるような、そんな手しか思い浮かばない。

「…君も薄々分かっているだろう。伯爵家と手を切るには、財団も財産も手放すしかない」

「そしたら…路頭に迷う。それにキースは、何よりもあたしが欲しいのよ。財産を手放しても、構わず追ってくるかもしれないわ」

 僕は思わず舌打ちし、いたたまれずに立ち上がって壁を向いた。

 額で寄りかかり、考える。


 僕の力で君を救うには、これしかない。

 でも君は望んでない。


 ため息をつき、つま先を揺らし、肘をついて頭を抱え、またため息。

 部屋の中をうろつきかけて狭さで諦め、彼女を見やり、また壁を見る。


 そして決断した。

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