紙吹雪

「ビビアン」

 僕は、彼女の前にしゃがみ込み、顔を見上げた。彼女の両膝に置かれている手に手を重ねる。


「僕と――結婚しよう」

「ティモシー、だめよ」


 彼女は僕の挙動不審ぶりから既に察していた。硬い表情の眉間がさらに険しくなる。

 僕は構わず続けた。


「僕の妻になってしまえば、伯爵だろうがもう口は出せない。僕は今や稼げるようになったし、玉の輿とは言えないけど二人分くらい楽なもんだよ」

「…玉の輿なんかもう懲り懲りよ。あんな鬼畜が蠢いてる貴族の世界は、あたしには合わないわ」

 彼女は苦笑いし、僕も表情を合わせて彼女の手を包み直した。

「でも、あたしなんかのためにあんたの人生を棒に振ることない。わかってるでしょ、あたしの本性を」

「ビビアン」


 僕はいったん立ち上がり、彼女の隣に拳一つ分空けて腰掛けた。


「これは…ひどい言い草かもしれないけど、もし君に理想通りの相手が現れたとしても、結婚することは叶わないだろう?」

「…そう、ね…」

「逆に、誰かと結婚するとしたら、…どうせ誰だろうが望まない相手になってしまうなら…僕でもいいじゃないか」


 本当にひどい言い草だ。でも僕の本音だ。彼女が嫁いだと聞いた時からずっと押し殺してきた気持ちだ。


「友達としての相性の良さはわかってるだろう? 完璧じゃなくても、うまくやれるさ」

「でも、でも…ティモシー…申し訳ないわ」

「いいんだ」

「でも、あんたに対して不誠実だわ」

「…いいんだ」

 彼女のでもでもだってに、僕は辛抱強く答え続けた。

「でも、でも! だめなの…あたしを、あたし自身が裏切るの」

 彼女は背を丸め、とうとう本音を話し始めた。

「あんたを愛してるのに、心からそう思ってるはずなのに、思い知らされるの。

 あんたのざらざらの頬や、固い背中や、ただ広いだけの胸に触れると、『違う』って思ってしまう。

 あたしを隅々まで愛してくれるあんたに、同じように愛し返したいのに、あたしも愛してるって伝えたいのに、…足りない。行き先がない。

 あんたをすべて包み込んで、思いを受け止めようとしているその時でさえ、柔らかい肌を求めてしまってる」

 そして恐る恐る問いかける。

「…こんなあたしを許せる?」

「許せるわけないだろう」

 躊躇もできず台詞が口から出ていってしまった。

 視界の端で彼女の肩がびくりと揺れる。


 どんなに望まれても、今から女の体に入れるわけないし、なりたくない。僕は男として彼女を愛したい。


 僕は額に指を当て、きっと恐ろしく鋭くなっているだろう眼光を隠した。

「…君は本当に馬鹿だ。君が内心では僕に満足してないことは元からわかってる。でもそれは飲み込めた。けれど、それをあけすけに全部僕に話してしまう、その馬鹿正直さが許せないんだ」

「……ごめんなさい」


 大きく息を吐き、僕は立ち上がった。上着を残したまま部屋を出て、階段を降りる。パブで一人分の食事をもらうと、戻ってきてノックとともに部屋に入った。

「ビビアン、食事はまだだったろ」

 言いながらトレーを手渡す。

「…ティモシーは?」

「僕はそろそろ帰るよ。食事は途中で済ます」

「そう…」

 ビビアンは、割り切れないような不安そうな顔をした。


「君に倣って僕も正直に言うけど」

 僕は上着を着込み、コートを手に取るともう一度彼女をまっすぐ見た。


「結婚を持ちかけたのは、僕が君を愛してるからだ。…いや、ポイントはそこじゃない。

 僕はずっと君を好きだった。どうしても欲しくて、今がまさにチャンスだから君の弱みに付け込んで迫ってるだけなんだ」


 彼女は怪訝に首を捻りながら聞いている。

「その点では僕はキースと何ら変わらない。腹黒い卑怯者さ」

「…自覚があるんなら、全然違うわ」

 片眉を歪めながら彼女は答えた。僕は軽く肩をすくめ、続けた。

「それを踏まえて、この申し出を受けるべきかどうか考えてみてほしい。ただ、奴に追われてることを考えるとあまり猶予をあげられない。明日九時、政庁前の広場で待ち合わせよう。そのとき返事を聞かせて。

 OKならそのまま届けを出しに行く。NOなら他の手を考えよう。解決策はきっとある」


 彼女は黙ってうなずいた。


「おやすみ」

 そして僕は部屋を出た。


* * *


 翌朝はぐっと冷え込み、大分冬が近づいていることを感じさせた。

 相変わらずの重く垂れ込めた曇天だったけど、王都は全域が熱気に溢れているかのようだった。通りも広場も、舞い上がる歓声と紙吹雪に埋め尽くされようとしていた。

 王太子殿下の第二子がお生まれになったのだ。

 お触れ役によれば、第二子はプリンセスで、母子ともに健やかでいらっしゃるらしい。


 とてもおめでたい話だ。できればあやかって僕もめでたい話を申し受けたいものだ。


 人々の大半が、自発的に祝日にするか午後からの仕事にした。パブはどこも店を開けて通る人々に酒を振る舞い、飲む気がなくてもマグを押し付けてきた。


「要らないって? そんなに急いでどこへ行くんだい」

「プロポーズの返事を聞きに行くんだ。素面でなきゃ失礼だ」

「そいつは一大事だ! しっかりやんな」

「ああ、振られたら奢ってくれ」

「うまくいったって奢ってやるさ! 彼女を連れて戻ってこいよ!」


 赤ら顔の連中に盛大に送り出されながら、政庁前の広場へ向かう。

 政庁のエントランスに続く階段の下でも、喜ぶ人々がひっきりなしに行き交っていた。少し先では大道芸人がありあわせの楽器で国歌を演奏し始め、たちまち周りで肩を組んで歌い出す集団が出来上がった。

 対面に建つ鐘楼が九時の鐘を鳴らした。


 人混みの中から歩いてくる彼女を見つけた。


 やばい。

 大入りのホールで新曲を初披露する時より緊張する。


 彼女は、僕の前まで来て立ち止まった。彼女の表情も硬い。

「…おはよう。答えは出た?」

 ぎこちなく微笑みながら問いかけると、彼女もまたぎこちなくうなずいた。

「ティモシー」

 彼女は僕の手を取り、両手で包んだ。もうその指を縛るものはなく、真っ更になっていた。白く冷えたその手を僕も包み、言葉を待つ。彼女は深呼吸し、そして告げた。


「申し出を受けるわ。あんたと結婚する」


 はっきりとした言葉に、通行人の何人かが振り返った。

「ありがとう。嬉しいよ」

 柔らかく僕は答える。

 彼女は目を伏せがちに言葉を続けた。


「…あたしも、あんたの弱みに付け込んでた。財団に応募してるのを知ったとき、どうしても会いたくて、そばにいてほしくて、恩を売って愛人にさせたの。今も、あんたの気持ちを利用しようとしてるだけかもしれない。

 あんたを振り回してばっかりのあたしなんか、見限ってくれてもいいのに…」


 僕は彼女を握った手に少し力を込めた。彼女は卑下をやめて僕を見た。


「一緒にいて、あんたをどれだけ好きだったか思い出したわ。あたしが好きだったところは、今でも変わっていなかった。あんたの目や、喋り方や、ふとした仕草や、時々顔を出す腹黒いところも。

 あたしは、ティモシーのティモシーらしいところを愛してる。姿なんかほんとはどうでもいいことなの。

 あんたの魂を愛してる」

「魂なんてとっくに君に捧げてる。いくらでも振り回せばいい。

 でも、僕は聖人君子じゃないから、振り回しすぎれば跳ね返る。それはちゃんと受けてもらうよ」

「…いいわ」


 僕たちは互いの頬にキスし、それから唇を重ねた。


 見守っていた人々が歓声を上げ、笛を鳴らした。

 唇を離して抱き合うと、野次馬はイベントは終わったと見て急速に関心を失い散っていった。


 腕の中で、遠くをぼんやりと見ていたビビアンが一筋の涙を流した。僕は通行人たちにどつかれながら、彼女が落ち着くまで守った。若者の一団が後ろから通り過ぎ、羨ましげに覗き込んだり、ぎろりと睨む者までいた。見せつけてるわけじゃないけど、やっと堂々と見せびらかせるんだ。何が悪い?


 僕は苦笑して空を見上げた。


 舞い散る紙吹雪の向こう、分厚い雲の間からは、天上から降りる階段のように幾本もの光の筋が射し込んでいた。

 きっと、天上のあるじがプリンセスを祝福しているのだろう。

 恩寵のおすそ分けは、抱き合う僕たちの上にも届いた。

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