決断(前)

* * *


 今年の王都の秋は、湿っぽい日が続いていた。

 僕の心情も今ひとつ冴えないままで、仕事をこなすには音楽を感情と切り離した作業として扱う必要があった。演奏家の仲間たちには、地方公演の疲れが出ているんじゃないかと気遣われた。


「最近、パブでの酒量が増えてるだろう? 不摂生は身を滅ぼすぞ」

「あの未亡人に癒してもらえよ」

「別れたって? それで冴えない顔してるのか。まあ、精力を吸い付くされる前で良かったな」

「そうだそうだ、残りは将来嫁さんをもらった時のために取っとけ」


 要らぬお節介をありがとう、と言いながらまた結局パブに入ってしまう僕だった。

 顔色が冴えないのは、度々悪夢を見るせいだ。


 ビビアンがキースと密通してたのを知ってから、うなされるようになった。


 重苦しく歪んだ彼女の部屋のベッドで、キースが彼女を組み敷いている。

 いつの間にか組み敷いているのは僕になり、彼女は僕だと気づくと顔を引きつらせ、逃げようとする。

 『だめなの、あんたじゃだめなの』

 彼女は部屋から出ようとし、開いたドアから差し伸べられた手を取る。

 そこには、昔彼女と街歩きばかりしてた頃の僕がいた。

 ドアの向こうでは、あの夏の日の川べりが眩しく輝いている。

 『やっぱりあんたがいいの』

 彼女も同じように少女の姿になり、二人で嬉しそうに腕を組んで去っていく。

 僕は追いつけない。昔の僕にも成り代われない。どれだけ叫んでも声が声にならない。

 二人を包む光が遠ざかり、汗びっしょりで僕は目を覚ます。


 最悪だ。


 昔、彼女が僕を好きだったのは、僕が並みの女の子よりも女の子らしく演じることができたからだ。

 彼女は、女の子の僕を好きだった。

 でも僕は、そう振る舞うのが好きだっただけで、心から女の子になりたいとか、男に生まれてきたことを間違ってるとか思ったことはない。

 そして男として彼女が好きだった。

 少年の頃は、彼女との将来をそんなに期待してはいなかったけど、再会してからは切実に考えるようになった。でも僕の気持ちは空回りだと思い知らされた。

 未亡人で子どももいない彼女は再婚が可能だし、お互いに平民だから陛下の承認もいらない。そんなにハードルがあるとは思っていなかった。

 でも彼女はおそらく誰とも結婚するつもりはない。もし彼女がそれこそ身も心も好きな相手ができたとしても、その相手と結婚する法律がない。彼女にとって愛のゴールになり得ない結婚には価値がないだろう。


 キースとの再婚も、二人がどう思ってようが険しい道のはずだ。伯爵位の父親の配偶者をその息子が娶るなんて、お家大事の戦乱期ならいざ知らず、今どきは忌避感の方が強い。陛下以前に貴族院がこんな話は通さないだろう。キースもちょっと考えれば分かるはずだが。


 いつものように目が冴えてしまい、つらつらと考えているうちに夜が明けてきた。頭の中で今日の予定を確認する。今日は契約している劇場で打ち合わせだ。多分一日中詰めることになるだろう。僕は深く息を吐くと、だるい体を起こした。


* * *


「ようし、今日はこの辺にしよう。ティモシー、事務所に来てくれ」

 舞台上のダンサーたちと、舞台下のオーケストラががたがたと帰り支度を始める。僕はショーのプロデューサーの後について事務所へ入った。今日は休演日で、集中して構成のチェックと稽古をしていた。

 今用意しているのは来月から上演予定のショーで、オペレッタとダンスで構成されている。僕は楽曲担当で、今日は指揮者の代役でオーケストラの前に立っている。歌詞とダンスの振付はプロデューサーが兼任だ。


「少し先になるが、新しい演目を考えている。引き続き楽曲を担当してほしい」

「ありがとうございます」

「この劇場は、市民向けの気取らず楽しい舞台が売りだ。なるべく若い層に来てほしいんだ。君の華やかで軽やかな曲はコンセプトに合うだろう」

 嬉しい評価だ。

「今、これから人気が出そうな若手脚本家を何人か見繕っている。決まったら顔合わせしよう」

「ぜひお願いします」

 脚本家も若手で揃えるのか。プロデューサー氏は若者の感性に大分期待している様子だ。

「人気の舞台にしてみせるぞ。こけら落としには、若い世代代表で王太子アーノルド殿下夫妻もご招待しよう」

「この劇場にですか? いや、それより殿下はともかく妃殿下はお越しになれるんですかね…?」

 別に身分で入場制限があるわけじゃないし、殿下は気さくでショービジネスにも意外と理解がある方だから、都合が合えばいらしてくれるだろう。でも妃殿下は今、第二子をご懐妊中だ。

「もうご出産間近だから、上演開始の頃には身軽になってるさ。何なら、第一子のベネディクト殿下とご家族そろってお呼びしよう」

「いや…さすがにそれはどうですかね…?」

 ベネディクト殿下もまだよちよち歩きだ。劇場なんかに来たって、何が起きてるかわからないだろう。プロデューサー氏の夢は膨らむ一方だ。

「そんなわけだから、君も一層気合を入れてくれ」

「ええ、勿論です」

「元気になったかな? 失恋には仕事に打ち込むのが一番だ」

 そう言って彼はウィンクした。ゴシップで有名になってしまうと、終わった時もいちいちうるさいんだな…。いや、気遣いはありがたい。激励に応えて発奮しないとな。


 事務所を出ると、外は寒々としていた。白い息を吐きコートの前を合わせて歩き出した途端、聞き覚えのある声に呼ばれた。


「ティモシー!」

「…ビビアン!?」


 僕は目を疑った。

 ビビアンが、劇場の通用口の前に立っていた。だが驚いたことに格好は庶民風だった。雰囲気は小ぎれいだから、落ちぶれたのではなく変装だ…とは思う。

「やっと出てきた」

「何でこんなところに?」

「あんたの部屋を訪ねたら、今日はここにいるって聞いて」

「いや…何で王都に?」

 重ねて聞くと、彼女は気まずさをごまかすように笑いながら言った。


「…逃げてきちゃった」

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