未亡人(後)

 ビビアンはぱっと笑顔になって立ち上がった。

「…ティモシー!? 本当にティモシーね? わあ信じらんない!」

 今しがたの客との気取り倒した会話から、一転してあの蓮っ葉な口調に戻り、裸足なのも構わず駆け寄ってきた。

 ああ、ビビアンはやっぱりビビアンだ。

「わかってて呼んだんじゃないの?」

「わかってたけど、じゃ誰かと思うわよ! もう、何よこれ!」

 そう言って笑いながら遠慮なく僕の揉み上げを掴んだ。

「ちょ、距離感」

「あーあ、あの乙女のような美少年がこんなになっちゃって」

「そりゃ六年も経てばいっぱしの男らしくはなるよ」

 僕はもうとっくに、女の子と見紛うような風貌なんか失っていた。骨格もしっかりしたし足も大きくなったし、顔つきはほっそりしたままだけど、厚い頬髯と薄い口髭に覆われていた。髪はやや長めで、後ろで一つにまとめている。

「やーだぁ」

「多少は貫禄を付けないと見くびられるからね」

 ビビアンは僕の髯が本物なのか確認すると満足したようで、袖を引っ張って室内へ導いた。

「君だって随分…色々と変わったじゃないか」

「そうね」


 メイドが替えの靴下を持ってきて、ソファに腰を下ろした彼女に履かせた。その間に別のメイドがティーセットを運び込み、窓辺のテーブルに支度を整える。

 彼女は靴を履き直すとまた立ち上がり、「どうぞ」とテーブルを優雅に示した。人目があると切り替えが早い。二人とも椅子に掛けると、メイドがお茶を注ぐ。


「君が、こんな由緒正しい伯爵家の夫人になってるなんてね」

「もう未亡人よ」

「立派な財団も仕切ってる」

「わたしと先代伯爵様とで興した事業だもの」


 先代伯爵が再婚したと聞いたとき、その相手がビビアンであることも同時に知った。プレスコット伯爵家はうちより家格が上で裕福でもあった。伯爵は先妻との間に子どもがいないまま死別しており、目ぼしい係累にも男子がいなかった。娘どころか下手したら孫くらい歳の離れたビビアンを後妻として娶ったのも、何とか嫡男を得ようとしてのことだろうと誰もが察した。

 当時僕は、あのビビアンを!?と内心驚いたものだ。彼女もおそらく親には逆らえず、自分の心に逆らう道を選んだのだな、と少しばかり同情した。仕事も非常に忙しかったので、それ以上の感想を持つ余裕はなかった。


 結局彼女も子どもを授かることもなく、伯爵は亡くなった。その直前に庶子だという男性が現れ、伯爵も認めていたので彼が爵位を継承した。ビビアンにはかなりの財産と、件の財団が遺されたらしい。

 もうプレスコットは赤の他人に代替わりしてしまったので、通例なら彼女は実家のオリアリー家かどこかに単身移るところだ。だが現伯爵のキース卿の厚意でこのコテージを借りているのだという。


「ティモシーも頑張ってるのね。自分の才能で身を立てているあなたの方がよほど立派だわ」

「まだまだだよ。それで? 僕は書類審査を無事通過して、会長直々に面接を受けてるわけ?」

 ビビアンは、テーブルに置かれた封筒から書類を取り出した。

「これがあなたの応募書類ね。あなたのご師匠の推薦状もいただいてるわね。でもねティモシー、この財団はね、家庭の事情で十分才能を伸ばせずにいる若者を支援するのが本来の目的なの。残念だけどあなたは…教育では恵まれているから、対象にはできないわ」

「そう。やっぱりね」

「ごめんなさいね。…でも、せっかくこうして顔を合わせたのだもの、昔のよしみで個人的にできることなら何かしてあげたいわ」

 彼女は申し訳なさそうに言うと、少し身を乗り出してテーブルの上で両手を組み、覗き込むように僕を見つめた。多少は大人びたけれど、大きな瞳と小さな口元は今だ愛らしさを保っていた。栗色の髪は複雑に編み込んでまとめられていたけれど、下ろせばふわふわと広がるだろう。未亡人とは言え彼女はまだ二十四歳だ。歳に見合った瑞々しさの中に、人妻としての艶が見え隠れしていると感じるのは、僕の錯覚だろうか。

 口に含んだお茶が塊となって喉を降り、ぐびりと品のない音を立てた。その瞬間に、彼女の薬指にはまった指輪が日差しを反射し、僕の目を突き刺す。


 ああ、君は何だってよりによって年寄りの妻になんか。


 思っても仕方ないのに、もやもやと胸に何かの感情が湧き起こる。羨望か、悔しさか。心の中で舌打ちする。僕は負け犬だ。先代伯爵はとっくに往生したのに、僕の往生際はすこぶる悪いな。


「ねえ、例えば」

 僕が黙っているのに焦れたのか、彼女の方から口を開いた。

「わたしがあなたのパトロンになるのはどうかしら」

「な、何だって!?」

「財団に応募したのも、パトロンを探しているからでしょう? 公的なお金は出せないけど、わたし個人のなら出せなくもないわ。それにわたし、人脈もあるわよ」

 そういう話を避けるために、財団の方に応募したのに。

 …いや、ひょっとしたら顔を見れるかもって考えが頭をかすめたことは認める。避けたいのか会いたいのか、自分でも矛盾してると思う。でもそれでも、君をパトロンにするなんてさすがに恥ずかしすぎる。

「厚意はありがたいけど、遠慮するよ」

「まあ、どうして?」

「どうしてって…君は自分の噂をご存知ないっての?」

 悠々自適の未亡人として愛人を取っ替え引っ替えしてる、そういう噂を。

「それは当然『ご存知』だけど、あなた財団にまで応募しといて、なりふり構ってる余裕があるの?」

「そうは言っても、もしそんな噂に登場する羽目になったら、こっちにはデメリットだよ」

「厄介ねえ」

 他人事みたいに言ってる。

「とにかく、どっちにしても君の力は借りられないってことだ。時間を取らせたね」

「待って、ティモシー」

 ドアへ向かおうとすると、ビビアンが呼び止めた。

「あなたを明日のディナーにも招待するわ。他にも招待客ゲストがいるから、噂がどこまで本当かその目で確かめたらどうかしら」

「……」

「それに、ヴァイオレット・ホールの支配人もお呼びしてるの」

 ヴァイオレット・ホールはこの地方一の劇場だ。昨日まで僕が仲間とのコンサートで使った会場とは格が違う。

「お会いしたいでしょう?」

 ビビアンは悠然として言った。


「お待ちしてるわ」

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