第三章 愛人

未亡人(前)

「ティモシー卿、君にメッセージが届いてるよ」

 コンサートの打ち上げパーティーの場で、僕は仲間から封筒を受け取った。中を開けて差出人を確認する。

「プレスコット伯爵からだ」

 おお、と周りから期待と羨望のこもった声が上がる。

「運良く目に止まったようだな。チャンスを逃すなよ」

「わかってる、ありがとう」

 伯爵領に来ればもしかしてと思ってたけど、ついに来たか。目眩のような錯覚をこらえて、僕は本文に目を走らせた。


 いま僕は、新進の音楽家として売出し中だった。

 最初のうちは、師匠にくっついて貴族のサロンで催されるプライベート・コンサートの演奏を手伝い、招待客の口コミで他の貴族にも呼ばれ、というルーチンを繰り返していた。

 そのうち師匠と同じように特定の貴族に気に入られ、カントリー・ハウスに招かれて領内のイベントでの演奏を仕切ったり、その家の子供たちに楽器を教えたりして過ごすこともあった。でもすぐに退屈してしまい、さらにお嬢さんや奥方に気に入られすぎたので、大ごとにならないうちに退散した。その後は王都に戻り、そこそこの劇場と期間契約して劇伴を書いたりしていた。


 この仕事は、一昔前のように貴族に囲い込まれるよりも、市民向けにアピールする方が人気を得やすく当世風のやり方だった。ただ、アピールの場を得るためにはやはりコネや資金を持つパトロンが必要だった。師匠のパトロンは師匠のものだし、父上のダルトン伯爵は僕に必要以上に支援しないと決めていたので、自力でそういう相手を探さないといけない。

 こうして伝手をたどって奏者仲間と地方のホールでコンサートを開き、辺りの興行主や実業家、篤志家などに招待状を送って彼らの眼鏡に適おうとしていた。

 プレスコット伯爵も目当ての一人で、最近代替わりしたものの先代は篤志家としての評判が高かった。先代伯爵は、才能に秀でた若者を支援する財団も興していた。実は僕は、その書類審査にも応募していた。貴族個人のコネに依存すると気まぐれに振り回されてしまう。それよりも客観的に実力で評価してもらった方が、むしろ将来確実だからだ。


「…財団の会長が僕に興味をお持ちなので、明日のお茶にご招待するそうだ」

 ほう…と、今度は先程とは違ったニュアンスの羨望と、好奇の声が上がった。

「おいおい、そっちの目にも止まったのか」

「取って食われないよう気をつけろ」

「俺なら食われてもいいな。羨ましい」

 妙な盛り上がり方をするのは、会長が伯爵本人ではなく先代伯爵未亡人だからだ。彼女は数年前、老齢の先代伯爵に後妻として嫁いだため様々なゴシップを纏うことになった。爵位は先代の庶子が継いだが、彼女も今だ敷地内に住まっていることから、二代に渡って伯爵を誑かしただの、他にも愛人を取っ替え引っ替えしているだの、社交界ではとんでもない不良夫人だと噂されている。


 この夫人について僕が知っていることは他にもある。それが目眩を起こさせる。噂がどこまで本当か、自分の目で確かめるのは気が進まない。うっかりして自分まで噂の的になるのは、もっと気が進まない。


「ただの面接だろ。審査を通過して今後の資金を無事手に入れて見せるさ」

 そう言って僕はグラスをあおった。


* * *


 迎えの馬車は伯爵邸を素通りし、ほぼ隣接するように塀に囲まれて建つコテージの前に停まった。前庭は趣味よく手入れされており、門の近くにはミモザが咲き誇っていた。出迎えた執事は、「奥様は只今来客中です」と僕を控えの間へ通した。

 お茶に呼びつけておいて待たせるのか、と内心呆れながら従う。隣のサロンから楽しそうな話し声が妙に聞こえるのでそっと廊下に出てみると、サロンの扉が開け放しだった。よく聞こえるはずだ。


「まあ、それではレース職人をお探しなのね。わたくし、腕の良い職人をご紹介できましてよ」

「おお、さすがは奥様です」


 来客はどうやら、工房を抱える実業家か何からしい。夫人は余裕たっぷりで相手をしている。


「例えば、今わたくしが身に着けているこの靴下も、その職人の作品ですのよ」

「お…お、左様でございますか…」

「ご覧になります? ほら、このふちの始末が本当に見事でしてよ」

「は、はあ。ああ…確かに」

「もしよろしければ、をお持ちになって工房の皆さんで研究してみてはいかがかしら? その職人の価値がよく分かるに違いありませんわ」

「と、とんでもない。そこまで図々しいことは……あの、本当に、その…奥様からいただいてもよろしいので?」

「ええ、構いませんわ。たくさんありますから」

「ははあ…」

「ほら、どうなさったの。どうぞをお持ちになって。わたくし、じっとしてますから」

「……で、では、失礼して…こちらのおみ足から」


 ああ、全く。何をやってるんだ、何を。調子に乗りすぎだ。

 僕はたまらずサロンの入口に立った。客はこちらに半ば背を向けて女主人の足元に跪き、彼女の靴下を脱がそうとしていた。その光景には苦笑しか浮かばない。僕は、戸口に寄りかかりながらおもむろにノックした。客がびくりと跳ね上がって振り返る。僕が目だけで会釈すると、慌てて僕と夫人を交互に見た。夫人は全く焦らずに彼に告げる。

「まあ、次のお客様がお着きだわ。この後、お茶のお約束をしているの。申し訳ないですけど、これで失礼させていただいてもよろしいかしら?」

「は、はい! ではまた改めまして、職人のご紹介をいただければ」

「ええ、後で紹介状を送るわ」

「ありがとうございます!」

 客は、靴下を懐に突っ込みながらぎくしゃくと立ち上がり、「本日は無理にお時間をいただきまして」だのと言いながらサロンを出ていった。入口に立つ僕とは全く目を合わせず、いないかのようにそそくさとすり抜けていった。

 改めて僕は、室内に残る彼女に声をかけた。


「やあ。…久し振りだね、ビビアン」

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