半分の世界で

* * *


 ナンシーは、ほぼ毎晩あたしの部屋に泊まった。あたしは仕事があるから芝居は見れなかったけど、仕事帰りにテントに寄って、屋台でご飯を食べて、それから二人で部屋に戻った。


 あたしはナンシーにすっかり舞い上がっていた。彼女の頭のてっぺんから爪先まで、全部が可愛くて仕方なかった。あたしも、あたし史上最高に可愛くなってると思った。その可愛さを彼女だけに捧げた。

 育ちも似ていて、上品ぶる必要がない。彼女はあたしにとって完璧な恋人に思えた。


 でも時々、言いようのない寂寥感に襲われた。

 前世を、自分の本性を思い出したとき、あたしは世界の半分を切り捨てて、男のいないもう半分の世界で生きていくんだと思った。今、とうとうそういう人生に踏み出したことが怖かった。後悔はないけどただ不安だった。

 この先あたしはどうなるんだろう? この子と生きていくんだろうか? 家族や周囲に秘密で、ここで二人寄り添って生きていく? それともどこか遠くに行く? あるいは、別れてまた他の人に出会って、そんな風に渡り歩く?


 不安はあたしを弱くした。


「ナンシーがずっと王都にいてくれたらいいのに。あたし、あんたと離れたくない」

「そんなわけにいかないよ」

「じゃああたしが付いてってもいい?」

「何言い出すの!? もっと無理」

「ナンシーぃ」

「…あのさあ。

 王都に来た時はあのクラブで相手を探すけど、大体その夜限りが多いんだ。今回ビビアンと長丁場になったのは想定外で――まあ意外と楽しいからいいんだけど――でもそういうこと言い出されるから、その夜限りにしてるんだよ」

 呆れた声でそう言うと、ベッドから降りた。あたしは慌てて情けない声を出す。

「ごめんなさい、もう言わない。だから、王都にいる間はそばにいて」

「…女は私だけじゃないけどねえ」

 そう言いながらも再びベッドに腰掛けてくれたので、あたしはすり寄って肩にもたれる。

「最初だから目がくらんでるんじゃない?」

「わかんない。でももし今後誰かに出会っても、絶対あんたと比べて引き算しちゃうと思う。そんだけあんたはレベル高いのよ」

「…どうも」

 でも、彼女は軽くキスしただけでやっぱり立ち上がってしまった。

「明日、早いから」

「…うん。気をつけてね。芝居、見に行くね」

 明日はまた週末が巡ってきていた。あたしは昼で早く仕事を切り上げてパークに行くことにしていた。ホランド一座の公演は予想通りウケが今いちなので、残りの半月は演目を変えると聞いてたからだ。

 アパートのポーチまで出て彼女を見送った。ランプの光は、立ち止まることなく小さくなっていった。


* * *


 新しい演目は、残念ながらやっぱり退屈だった。今度は王太子アーノルド殿下の近年のご活躍を元にしているのは明らかで、でも史実をある程度なぞろうとしたせいで地味な仕上がりになっていた。


「とある国の王子が遠国から追放された姫君を保護して、商人の一団に紛れて入り込んだ追手に攫われるも危機一髪で救い出し、姫君に付き従ってきた騎士と思い合っているのを察して結婚を認める…?

 何これ、ただの良い人じゃない」


 三年くらい前に、実際にそんな事件はあった。当時まだ学生だった殿下もこんな感じの活躍をしてた。

 確かにあの人、素はただの良い人だったけどさ。芝居として盛り上げるにはもっとこう…大胆なアレンジが足りない。


「何つーかさ、あれだわ。王子か騎士、どっちか出なくてもいいんじゃない?」

「確かにそんな気はしてた」

 あたしたちは、テントをちょっと離れて屋台で忌憚なく意見交換していた。

「でも出せばチャンバラが派手になるから」

「いやー要らないわ。王子が主役なら最後に姫君もらわないとダメじゃん。そんで騎士とは恋のサヤ当て合戦でもして笑いを取らないと」

「だよねえ。いや、実はこれ座長が半分私に書かせてくれたんだけどさ、実際そういうシーン入れてたんだよ。けど、不敬だってんで没にされちゃって」

「架空の国の設定なんだから陛下は目くじら立てないと思うけど、表現の自由が忖度に負けるのはどこも同じねえ。でもナンシーはツボをちゃんとわかってんのね。偉い!」

「いやあ、これくらい」

「ねえ…この一座じゃあ、あんたこの先微妙じゃない?」

「また余計なお世話」

 ナンシーは、眉を不快げに上げ下げした。

「ごめんね。でも脚本やる方が好きなんでしょ? ちゃんと評価してくれるところに移れないの? 芝居小屋こんなにあるのに」

「女の書く脚本なんて、なんて言われそう」

「別にいいじゃん。そんならそんで女心にフィットする話を書けば、女の観客がどっと増えるじゃん」

「女心ねえ〜…」


 あれあれ。もっと渋い顔になった。


「何よ」

「私に普通の女の心が書けると思う? 主役が男なら、ヒロインを褒める台詞をいくらでも書けるけど、女が男にどう惚れるのかはわかんない」

「なーに言ってんのよ。相手のことはさておき、恋した女の気持ちはわかるでしょ? デートの約束しただけで舞い上がったり、ケンカしちゃってクヨクヨしたり。恋する気持ちに性別は関係な――」


 かつて、あたし自身が否定した言葉が、あたしの舌を突き刺した。

 ああ、こういう意味なら間違いとは言えない。あの時もこんな意味だったんだろうか? あたしが曲解しちゃったんだろうか? …もしそうなら、ごめんね。傷つけ過ぎちゃった。


「ビビアン?」

 目の前で恋人が不思議そうにしてるので、あたしは昔の誰かの恋を頭から追い出した。

「何でもない。で、今日はどうするの?」

「うん。…今日はビビアンにすごく励ましてもらった気がするから、お礼がしたいかな」

 ナンシーはあたしの膝に手を置き、照れくさそうに言った。あたしは手を重ねると、ニコッと笑った。


* * *


 天井を見上げながら、朝日に右手をかざす。

 隣からも右手が伸びてきて、あたしの手の甲に重なった。

 しばしの間、指を絡め合う。


 あたしたちの仲を保証するものはない。

 もっと確かな絆を作れたらいいのに。


「ねえナンシー」

「うん」

 腕が疲れてきたので、あたしはゆっくりと降ろした。

 彼女は左手に交代してあたしの手を握った。

「またあたし、『そういうことを言い出す女』になっちゃうけど…」

「うん」

「子どもが欲しいな」

「ふん」

 ナンシーは鼻で笑った。

「ナンシーに、あたしの子どもを産んでほしい」

「はあ!? こっちが産むの前提?」

「だって」

 あたしは肘を付き、彼女を見下ろした。

「あたしの方があんたを好きでしょ。あんたはあたしをそれほどじゃない。王都を出て行ったら忘れてしまう。だから、あたしあんたの中にどうにかして残りたいの」


 彼女は、何言ってんだこいつという顔であたしを見ていた。そりゃそうよね。


「本当にそうなったら、あたし絶対二人とも面倒見るから。可愛がって、不憫な思いなんかさせない」

「ちょ、こわ…」

「…冗談よ」

 さすがにもうやめて、またあたしはひっくり返った。

「片思いなんか、したくなかったなあ」

「…申し訳ないね」

「ああ、いいの。あたしは人に惚れさすの専門だから、自分が惚れる経験値が低いのよね。こんなに不器用とは思わなかった」

 ナンシーが何か言おうとしたとき、誰かが――二人分の足音が――階段を上がってきて、この部屋の前で立ち止まった。あたしはびくっとして跳ね起きた。ノックの音がする。


「ビビアンさん、起きてます?」

 管理人だ。続く台詞にあたしは真っ青になった。

「お父様が、オリアリー子爵様がお見えですよ」

 引き攣る声で、身支度するので待ってと叫んだ。

 確かに昨夜ナンシーと帰ってきたとき、扉の下から父の手紙が差し入れられていた。今日の訪問の先触れだったんだろうか?

「子爵だって!? あんたやっぱりいいとこのお嬢さん…」

「シッ! あんたも早く着て!」

 あたしはどたばたとベッドを出た。一人分ではない気配を察して、またノックをされる。

「ビビアン? 他に誰かいるのか?」

「はあ、最近よくお友達がお泊りです」


 あ゛ー管理人!


「何だと!? まさか、一体どんな友達だ!!」

 扉がさっと開き、父の目は半裸のあたしとナンシーをしっかり捉えた。


* * *


 父は、王都へ商用がてら、あたしの嫁ぎ先候補のリストを揃えて顔を見に来ていた。

 ナンシーは部屋の外に放り出され、あたしは跪かされてこってり絞られた。


「そんなことをさせるためにお前に王都に残ることを許したんじゃない――」

「――私のせいで男性に希望を持てなくなったとしたらそれは済まないが…」

「――奥方マダムとなって一人前になったらどう遊んだって知ったことではないが――」

「――あんな庶民崩れと関わったら堕ちるとこまで堕ちるだけだ」


 説教は延々と続いた。そしてついに、仕事を辞めさせて実家へ連れ戻すと言い渡された。

「でもまだ勤めて一年も経ってないわ! 奨学金を返済しなきゃならないわ」

「勤めて一年も経たないのに浮ついたことをするからだろう! 奨学金はどうとでもする。お前が傷物になる方がよっぽど問題だ」

 都会にいようが田舎にいようが、傷物になる時はなるわよ、とあたしは口の中でつぶやいた。


 その日のうちに、あたしは父が商用で泊まっているホテルに移され、実家から伴ってきた使用人に見張られた。職場もアパートも父がどんどん手続きを進めた。


 翌日父が出掛けたとき、決死の覚悟で抜け出してホランド一座のテントを訪ねた。でもナンシーはいなくなっていた。座長は貴族を怒らせたのではと怯えてあたしを追い払おうとした。片隅ではらはらして様子を見てる奴を捕まえて胸ぐらを揺さぶると、ようやくここを辞めてよその劇団に移ったことを白状した。

 どうせ辞め時だったからそれはいい。その劇団が結構な大手なのも、運が向いてきてるようでいい。ただ、その劇団の拠点は隣国にあり、もう帰還のために出発してしまっていた。白状してくれた奴は、彼女が数年は戻る気はないと言ってたとも語った。


 あたしは絶望した。

 掴みかけていたものが手をすり抜けていった。いや、きっと元から何も手に入れてなかった。半月早く失っただけだ。

 ナンシーを不実と言うつもりはない。彼女には彼女の世界があって、あたしはそこにいっとき彩りを加える登場人物の一人に過ぎないってことをただ思い知らされた。


 でも泣いた。ずっと泣いてた。

 恋人に捨てられたことより、しがらみから抜け出せないことが悲しかった。

 カランに着く頃、不承不承諦めた。半分の世界で生きていくことを。

 不承不承、元のもう半分の世界で生きていくことにした。

 元々の目的に戻るだけの話だった。カランを、実家を出て、玉の輿に乗る。ただそれだけ。

 あたしの中の虚ろな部分は、埋まることがないだろうけど。

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