密会(前)
* * *
ティモシーが旧プレスコット伯爵領へ凱旋公演に行っている間に、あたしはとうとう数年ぶりに秘密のクラブへ足を運んでしまった。
この場所なら、誰もが現世のしがらみから解放されるはずだった。有名人の妻でも元伯爵夫人でもない誰かになって、誰でもない人と幻のようなひと時を過ごしたかった。
でも、ナンシーもそこにいた。
店に入ってすぐに彼女はあたしに向かってきた。仮面のはずなのにあたしたちは互いにわかった。ナンシーは女性に戻っていたけど、頭は短髪のままだった。
「やあ」
「…こんばんは。しょっぱなからあなたに会ってしまうなんて」
「すごいオーラだよ。『あたしは今夜の相手を探してるの。あたしの眼鏡に適う人はいるかしら?』って」
「そんなに偉そうにしてないわ」
「みんな気後れしてる」
「あんたは平気そうじゃない」
「あんたの最初の獲物だからね。いつでも
「よしてよ。あんたじゃまずいわ」
近づきすぎる彼女を押し戻そうとして出した手を、彼女はしなやかな指で絡め取ってしまった。
ああ、また動けない。
「そういうしがらみから解放されるために、ここに来たんだろう?」
彼女を意識すると目眩が起こり、客たちのざわめきやオルガンが木霊のようにわんわんと鳴り響いた。
倒れないように強く握り返したとき、あたしの目にも火が点った。
「…もっと静かなところで話したいわ」
* * *
ナンシーは素晴らしかった。
あたしはこんなにも飢えていたのかと驚かされた。
あたしが欲しかったものは全部そこにあり、豊かで熱くて、そして安全で対等だった。
彼女もあたしに飢えていた。
あたしたちはお互いを存分に貪った。
あたしは心から満足した。
直後に、激しい自己嫌悪に襲われた。
欲望に負けてしまう自分があさましくて情けなかった。
そして、女が相手なら何も起こることなくできることに愕然とした。
違う、きっと今までは勘が戻らなかっただけ。
ナンシーは元々よく知ってる相手だったから、抵抗がなかっただけ。
誰より心を開いている夫ともきっとうまくいくはず。
そうでなきゃいけない。
「ナンシー、ありがとう。…感謝してる」
「感謝…? 何だそれ」
ナンシーは不満そうに答えた。
「でも、今夜のことは今夜だけのことにして。お願い」
「…まあ、仕方がないね。でもクラブに来ればいつでも相手するよ」
「もう来ない」
「はっ。そう言えるんなら、最初から来ていない」
彼女の容赦ない言葉に身をすくめ、あたしは逃げるように立ち去った。
* * *
盛夏の日差しを避けて、カフェテラスの傘の下であたしはぼんやりと考え込んでいた。
ティモシーとは相変わらずうまくいってない。
普段の睦まじさも彼の優しさも何も変わらず、その点は問題ない。ただ、どうしても直接愛し合えない。
彼が地方公演から帰ってきた夜、あたしは今度こそ受け入れられそうだと思った。
けれど順調すぎて、あたしのやり方で彼を愛そうとしてしまった。
彼に拒まれて、一瞬予行演習したことに気づかれたんじゃないかと固まった。そのせいで彼はその夜はもう諦めてしまった。
例え後遺症を乗り越えられたとしても、まだ問題があったことをまた忘れていた。口にすれば深刻な問題になる。でも口にしなくても問題なことには変わりない。
あたしは本当にティモシーを愛してる。その気持ちに嘘はない。ティモシーだから愛してるのであって、男でも女でもどっちでもなくても、多分関係ない。愛してるのは魂だ。
でも、魂が選んだ相手と生身の体が満足する相手が違うのが問題だった。心の愛は性別にこだわらないけど、体の愛は性別にこだわってしまう。多分それがあたしの本性だったんだろう。ナンシーよりも複雑なタイプだ。
このまま夫婦であろうとすれば、彼をずっと苦しめてしまう。
ああでも、あたしが目を瞑ればきっと何とかなる。
だのになお、まだ辛いことはあった。
あたしは彼の子を産んであげられない。
お互いに好きだったのに諦めて、再会して、愛し合って、結婚も諦めていたのに奇跡のように叶って、そうして一つ一つ諦めたものを取り戻しながら幸せを積み重ねてきたのに。
結婚の次に来る幸せは、子どもがいる家庭のはずなのに。
まだ先のことだと思っていたのにもう失われたと知って、あたしも彼も深く落胆した。
可能性は薄いのに、お互い諦めきれていないから試そうとしてしまう。
何重にも問題があって、どれから片付ければいいのかわからない。
問題によってはあたしじゃなくても解決できると口走ったことに、彼は怒った。
外で女を作ったらと言ったら、意趣返しのように君こそそうすればいいと言われた。
既に犯した罪をもう知られているのかとどきりとした。
でもあたしもわかってる。そんなことしても彼のためになるわけない。
あたしは彼を幸せにしたいだけなのに。
ぐるぐると答えの出ない悩みに考え疲れて来た頃、誰かが目の前に立ちテーブルを陰らせた。
見上げると、上品なドレスに淡い金の長い髪が目に入った。既視感を覚えて、逆光になっている顔をよく見ると――ナンシーだった。
あたしは思わず立ち上がって、上から下までまじまじと見た。
「びっくりした…誰かと思ったわ」
「ちょっと気分転換でね。似合う?」
ナンシーは、差したパラソルの柄を両手でくるくると回しながら小首を傾げてみせた。
その仕草に、どうして既視感があったのかわかった。
ティモシーによく似てる。
昔、ティモシーが女の子のふりをしてた時、ちょうどこんなドレスやウィッグを身に着けていた。小首を傾げる仕草も、あの頃の癖だ。
ティモシーがもしも本当に女の子で、そのまま成長したらきっとこんな感じだ。絶世の美少女の儚さは薄れるけれど、匂うような美女としての存在感を放っている。
「あんたって…完璧に理想通りだわ…」
理想って、現実に存在することがないから理想なんだわ。
もし今までの人生が夢で、あの遠い夏の日の続きがここにあるのだとしたら。
違う、彼女はティモシーじゃない。
わかってる。
あの夏の日はもう戻らない。
無敵だったあたしたちは輝きをおさめて地に足をつけ、ありふれたただの大人になった。
「おいおい! どうしたんだよ」
勝手に涙を溢れさせてしまったあたしを、ナンシーが驚いて座らせた。
「あ…ごめんなさい」
「本当にさあ、こんなところでぼんやりしてて、気になっちゃったよ。ひょっとして、旦那とうまくいってないの?」
「…よりによってあんたに話すことじゃないわ」
「心配なんだよ。こないだのあんたがあんまり気の毒な感じでさ。何か力になれないかと思ってるよ。ああいう形以外ででもね」
「……」
彼女の目には、炎ではなくあたしを気遣う優しい光が宿っていた。
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