第六章 盗人

くすぶる思い

「ティモシー、申し出を受けるわ。あんたと結婚する」

 紙吹雪が舞い散る広場の人混みの中で、あたしは彼に宣言した。緊張して余計なことをつらつら喋ってるあたしを、彼は辛抱強く待っててくれた。

 彼ほどあたしを愛してくれる人はいない。そんな彼が有り難く、全てが愛おしかった。あたしがこの世界で生きていく以上、彼に応えるべきなのだ。

「あんたの魂を愛してる」

 あたしたちはキスを交わし、抱き合った。周りにいた人々があたしたちを祝福する。

 その人混みの中に、どこかで見た顔があった。目が合った。その瞬間、遠いトンネルの向こうが突然繋がったみたいに、あたしとその人は見つめ合った。


 ナンシー。


 ずっと昔、あたしの前から消息を絶った恋人。

 あたしが泣く泣く諦めたはずの、もう半分の世界で出会った人。

 どうして今頃、目の前に。

 あれからあたしの身の上には色々なことが起きすぎて、あなたのことはずっと後ろに押しやっていた。時々水底から浮かび上がるように思いが蘇ることもあったけれど、温度を失った感傷でしかなくなっていた。

 今はあなたよりも、この腕の中にあるこの人の方が大切なの。あたしはこの人と歩いていく道を選んだの。たった今、そう決まったばかりなのに。


 ナンシーは無表情でこちらを見たまま歩いてくる。友人たちと連れ立っているらしかった。


 ああ…そうよね。

 あなたにとっても、顔色を変えたり避けたりするようなことじゃないのね。それだけ時間が経ったってこと。今この瞬間に、あたしたちは過去に決別するんだわ――。


 あたしは、あたしを抱き締めている腕に身を委ねて目を閉じた。温かい体温と、呼吸で上下する胸の確かな存在感を頼もしく思った。その体温で感傷が溶け去っていくような気がした。

 感傷の名残りが頬を伝った時、彼女がすぐそばをすり抜けていくのを感じた。


* * *


「本当にビビアンかい!? 見違えたよ、すごく綺麗になって…」

「それはこっちの台詞よ! 何よ、『ノエル』って」


 ティモシーが劇場との契約で打ち込んでた舞台の春公演初日、彼の楽屋に行ったら脚本を担当した劇作家ノエル・シェレトワと顔を合わせた。

 それがナンシーであることはすぐに分かった。あたしたちは思わず手を取り合って、飛び跳ねそうなくらい再会を喜んだ。

「ティモシーは褒めてたわ。生意気だけど才能があるって」

「一言多い奴だな」

「認めてるのよ。ねえ、一体どういうわけでナンシーがノエルになっちゃったの? 隣国に行ったのよね?」

「ああ、向こうの劇団で新しく名乗って腕を磨いた。脚本が認められて独り立ちできるようになったから、戻ってきたんだ」

 彼女は、ふと悲しげな目をした。

「これであんたを迎えに行けるんだって思ってね」

「あたしのために…?」

「昔の私は、何者でもなさすぎて…あんたに何一つ応えられなかった。だから私なりに地位を手に入れようとしたんだ。必死で。でも…」

 ナンシーはあたしを捨てたわけじゃなかった。逆だった。

「でも、…もう遅いわ」

「そうだね。あんな旦那がいるんじゃ、出る幕なさそうだ」

 あたしたちは黙って見つめ合った。


 ナンシーの馬鹿。あたしの上にも時間は流れるのよ。どうして一途に待ってるなんて信じたの。

 もしも、どこかに嫁ごうが心の中では待っていたとしても、いきなり打ち捨ててあんたを選ぶなんて多分…できない。

 全く、格好ばかり決まってても中身はうぶなんだから。


 彼女はただじっとあたしを見つめてた。数年分の欠乏を補充するように。


 一途なのはあんたの方ね。

 あたしなんか、元々すれてた上に怒涛のあれこれを経験したせいで、心の中に人間不信が根を張っちゃってる気がするわ。ピュアでいられるあんたが少しうらやましい。


 彼女の指先が、そっとあたしの頬を撫でた。

 頬からぴりぴりと痺れが広がっていき、あたしは動けなくなった。

「…いけないわ」

 視線を外せない。彼女の顔が近づいてくる。

 唇を塞がれた瞬間、その甘い感触に思考が消し飛んでしまった。長い間焦がれていた、その感覚。

 思わず腕にしがみつき、自分からもっと深くと求めてしまった。


 誰かが廊下をばたばたと駆けていき、お互いに我に返った。

 あたしの口紅が彼女に移ってしまっている。

「ごめんなさい」

 急いで身を離そうとしたけど、彼女は腕を緩めなかった。

「ビビアン…本当にもう手遅れなのか?」

 あたしは無理やり腕から逃れると、唇を指し示した。彼女が自分のそれを拭っているうちに、ティモシーが戻ってきた。あたしの最愛の夫。あたしが今誰よりも大切で、決して失いたくないのは彼。

 舞台の幕開けでやる彼のソロのために、見せつけるようなキスで送り出してやった。でも彼女は、かえって気持ちを掻き立てられてしまったようだ。ティモシーを追い立てた後、ぐんぐんとあたしの手を引いて座席へ案内した。

「旦那の仕事だけじゃなく、私の仕事もちゃんと見てよ?」

「わかってる。楽しみよ」

「わかってる? ねえビビアン、私はあんたに認めてほしくてここまで来たんだ。あんたを愛してるのは、よくわかってるのは、何も旦那だけじゃないって知ってほしい。旦那だけじゃく、私にも惚れ込んでほしいんだ」

「ナ…何の話なの? 舞台の出来よね?」

「そう思ってもいいけど、舞台を観たら意味が分かるよ」

 彼女は皮肉めいた笑みを浮かべると、きらりと目を光らせて戻っていった。


 ナンシーの眼差しにも、彼女が書いた作品にも、あたしへのくすぶる思いが込められていた。

 舞台では、ヒロインが一時的に男装して、登場人物の一人である姫君に惚れられる場面があったけど、あれはあたしと彼女が初めて会った時のやり取りに似ていた。客観的にかつての自分を見せられて、あの頃はがっついてたなと苦笑いしてしまう。

 テンポよく楽しく進行する舞台を観ながら、あの頃を懐かしく思い出す。二人だけの小さな巣で、互いだけを見てた。今だけがあれば良かった。未来のことも世間のことも考えたくなかった。

 大人として暮らしを営んでいる現在から考えれば、破綻するのは当然だった。でも、あの時傾けた情熱は真実だった。あれ以来、同じくらいに満たされたことはない。例えティモシーと共にいたとしても。


「ああ…」


 あたしは、ナンシーに会ってはいけなかった。彼女の眼差しに引きずられて、あたしまであの頃の思いが蘇ってきてしまう。

 しっかりしなきゃ。

 あたしには、誰よりもあたしを愛してくれる完璧な夫がいるのだから。


* * *


「……」

「奥様、お加減はいかがですか」

 あたしが目を覚ましたのに気づいて、パットンさんが控えめに声をかけた。

「大丈夫…ティモシーは?」

「まだお戻りになりません」

「そう」

 あたしは数カ月ぶりにパニックを起こして倒れてしまった。後遺症のしつこさにはうんざりする。もう大丈夫だと思っても、薄氷の上に立ってるだけだということを思い知らされる。

 前の結婚で未亡人になった後に住まっていたコテージには、象徴のようにミモザの木が立っていた。あの木をあたしは嫌いじゃなかったし、むしろ気に入っていた。なのに、知らず識らずのうちにミモザは、あの館で繰り広げられた忌まわしい出来事をも象徴するものになってたみたいだ。

 唐突にあたし宛てに届いた、贈り物のミモザのドライフラワーを見て倒れたのは、そういうわけだ。送り主がノエル・シェレトワだと知ると、ティモシーはいきり立って出ていった。

 でもノエルがナンシーであることは、あたししか知らない。


「シェレトワさんとはお友達になられたのですか?」

「…ただの顔見知りよ。あたしはあの方にとって、同僚の妻以上の意味はないはずよ」

「そうですか。そんな相手にミモザを贈るなんて、少し不穏ですね」

「どういうこと?」

 ミモザにまつわる過去を、パットンさんには話してない。ましてや、ノエルナンシーが知るはずもなかった。

「ミモザの花言葉は『感謝』や『友情』ですが、隣国では『秘密の恋』という意味があるそうです。シェレトワさんは隣国の方とお聞きしましたので、何か道ならぬ思いでもお持ちなのではと…。でも旦那様のあの様子なら、しっかり釘を刺して下さるでしょうね」

「…パットンさん、物知りなのね」

「恐れ入ります。差し出がましいことを申し上げました」


 ナンシー…何て大胆なことを。


 あたしとあんたはもう終わったはずなのに。

 終わっても、秘密はドライフラワーみたいに残り続けるってこと?

 それともやっぱり復活させたいの?

 どっちにしろ、こんな風に家に送りつけるなんてひどいじゃない。確実にティモシーの目に入るようにして、何のつもりなの? まるで脅しみたい。


 先日、劇場の支配人のディナーにティモシーの妻として参加した。あの時の席次では、偶然ノエルナンシーがあたしの向かいになった。彼女はあたしとはあまり話そうとしなかったけど、あたしを見る目には炎が宿っていた。


 あたしはナンシーが怖かった。

 ナンシーと接するうちにあたし自身に火が点きそうなのが怖かった。


 ティモシーを裏切りそうで怖い。

 ティモシーを愛すると誓ったはずの自分を裏切りそうで怖い。




 花は捨ててもらった。


* * *


 ティモシーは、とても優しかった。

 こっちが申し訳なくなるくらい辛抱強かった。

 忌まわしい記憶の後遺症で彼を受け入れられなくなってしまっても、もう子どもを望めないかもしれないことがわかっても、ただあたしの身を気遣い続けた。

 彼があたしに触れたくて我慢してるのがわかるから、早く回復したくて、もう回復したんじゃないかとせっかちに試そうとして、結局失敗してまたおあずけをくらわせる。ずっとそんな状態が続いていた。

 彼自身が辛いならいっそ娼館に行ってくれたらと言ったら、とても悲しがらせてしまった。

 あたしだってティモシーと愛し合いたいと思ってる。でもそんな意志とはお構いなしにパニックは起きた。

 あたしがだめなのは男なのか、行為そのものなのかはわからなかった。

 そんな区別が気になってしまうのは、ナンシーと再会したせいだ。頬に触れた彼女の指先や、握った手や、銀食器を操る手つきが度々脳裏に浮かんでしまう。


 ああ、だめ。

 考えてはだめ。


 それぐらいなら、彼女に触れるようにティモシーに触れればいい。

 でもそれもだめ。彼はそんな風に触られるのは好きではなかったし、触れるべき場所すら持ってない。


 あたしが彼に触れないのは、後遺症が出る前――結婚前から地味にストレスだった。

 彼が全身で愛してると伝えてくれるので、あたしも全身で受け止めた。あなたに愛されて嬉しいと伝えることはできた。でも、あたしもあなたを愛してると伝えるすべがなかった。

 だから彼とのコミュニケーションは、あたしからすれば実は結構一方通行なものだった。彼にプロポーズされた時、とうとうその本音を打ち明けたけど、彼は不問にした。

 言わずにいれば大きな問題にはならない、だから言ってくれるなと。

 ナンシーの目に煽られて、その問題があたしの中でくすぶっていることを自覚させられた。


 ああ、だめ。

 考えてはだめ。


 ティモシーにはもう相談できない。気づかれないうちにどうにか鎮めないと。

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