嘘
* * *
「きゃっ! ティモシー!?」
玄関のドアを開けたビビアンが、ポーチで荷物に腰掛けて待ってる僕に驚いて声を上げた。
「あーびっくりした。もう帰ってきたの!?」
「ああ、おはよう。昨夜のうちに帰りたかったけど、色々手間取って」
「そうなの。馬車の音も聞こえなかったから、相当早くから待ってたんじゃない?」
「…そうだね。少し朝露で濡れたかな」
実際には、明け方の薄暗い頃に帰ってきていた。ノエルとの交渉が思いのほか長引いたためだ。くたくただったが早く自分の家で落ち着きたかった。だが、これでしばらく奴に邪魔をされることはない。
「きゅー」
「ちょ、何? ビビアン」
中に入るやいなや、ビビアンは抱きついて額をこすりつけてきた。
「んー、ティモシー成分が足りなくって」
「たかが三日で大げさだな」
「えへへー」
「……」
そのあまりにも屈託のない笑顔を目にした瞬間、僕は固まった。
以前なら、どんなことがあってもこの笑顔を向けられたらもう勝てなかった。仕事でつまづいたり、彼女と他愛もない口喧嘩をしてしまったり、一日中ケチが付きどおしでくさくさしてても、一瞬でどうでもよくなってしまう力がこの笑顔にはあった。でも「どんなことがあっても」の「どんな」についての想像力がいかに甘かったかを思い知った。
なぜ、なぜ君はいま屈託のない顔ができるのか。微塵も後ろめたく感じてないってことなのか? 君にとって僕は、後ろめたく感じる必要もない相手なのか?
目の前にいるはずなのに、彼女の笑顔が急速に遠ざかっていくように感じた。
抱きついてる腕の感触は分厚いコート越しのように鈍く、さっきの甘えた照れ笑いの声がぼやけたこだまのように頭の中を何度か往復する。
遠い。とても遠い。
僕が君を愛そうと憎もうと、一切届かないんじゃないかと思うほどに。
寂しくなるくらい遠い。凍えるくらい遠い。
取り戻したくても取り戻せないくらい、どうしようもなく遠い。
君がとっくに僕にうんざりしていて、ナンシーに救い出されるのを心待ちにしているのなら、もはや僕に何ができるだろう? 鳥かごの扉を黙って開けてやるくらいか?
――違う!
視界の両端から温度が戻ってくる。
そんな風に笑ってるなんておかしい。僕を愛してないなんておかしい。せめて僕とナンシーのどちらを選ぶか深く悩んでほしい。悩んでる片鱗を見せてほしい。そんな苦労もなく、あっさりと乗り換えるなんて許せない。
僕はもっと怒っていいんだ。それが当然の権利なんだ。今すぐ彼女を閉じ込めて、糾弾して、自白させて、謝罪させて、悔悛させて、その上で赦すなり放り出すなりするべきなんだ。呪いが発動するまで安穏とさせておくなんて馬鹿らしすぎる。僕の気持ちをきっちりとわからせておくべきだ。
うなじと肩が一気に燃え上がり、口の隙間から炎の前触れが漏れ出ようとした。
「ティモシー?」
だが、ちょっと眉をひそめつつきょとんとする彼女に、決意はあえなく崩れた。あどけない顔を見ると思考力が溶け落ちていきそうになる。
長年僕の心に住まい、運命を分かち合ってきた君は、もう僕の感情の一部なんだ。僕の愛を形にしたら君なんだ。断罪で萎み枯らせるのは忍びない。
辛い。
寂しい。
許せない。
許したい。
彼女を見つめながら、僕は凍てつく痛みと焼けつく痛みに同時に苛まれ、甘やかな感情がそれらをも押し流そうとするのをどう耐えればいいのかわからなくなった。
表情が定まらないまま黙りこくる僕を、ビビアンはさすがに不審がった。
「どうしたの!?」
「何でも…何でもない、何でもないよ」
「うそ。誰か不幸でもあったの?」
「いや…違うんだ。ただ疲れてるだけだよ」
「そう? じゃあお茶を入れようか? それともすぐ休む?」
「ああ、それじゃお茶をお願いするよ」
相当ぎこちないに違いないが、それでも笑ってみせると彼女もほっとした顔になった。
その柔らかな頬を撫でる。
愛とは別の次元で、僕は君を信じてない。
君は正直すぎて、本気だったことも少し経てば嘘になる。その信用ならなさをわかっていたはずなのに、僕だけは例外だと思い込んだのが失敗だった。
もう動揺はするまい。
君が嘘をついていたというなら、僕も同じだけ嘘をつこう。
君が犯した罪を、僕も背負おう。
そうすればせめて君を憎まずにすむんだ。
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