交渉
* * *
情報屋が押さえたそれほどいかがわしくはない宿に、憮然とした彼女を連れて入った。
「彼女と積もる話をしたい。悪いが外しててくれるか」
僕は情報屋に金を渡し、下のパブで飲ませた。
二人きりになると、彼女は勝手に椅子に座って横を向いた。ふてぶてしい奴だ。僕もテーブルを挟んでもう一方に腰掛ける。
「お前がナンシーだったのか」
「……」
ノエル=ナンシーは、沈黙で認めた。
「あんた、どこまで聞いてんだい」
「ビビアンの昔の女だと聞いている。親にバレた途端に尻尾を巻いて逃げ出したそうだな」
「……」
「彼女を捨てたくせに、何で今頃現れた?」
「……」
「僕に近づいたのも、彼女に会うためか? 一体僕の妻に何を要求してる?」
「……」
「答えろ!!」
「…妻、妻、うるさいよ」
「ああ、うるさく言ってやってるんだ。お前はビビアンが僕の妻だってことをわかってないようだからな」
ノエルは、ふんと鼻を鳴らした。
「何で今更彼女に付きまとう?」
「私だって、何で今更とは思うさ。でも、私がしてやれることはこれぐらいだからね」
「…どういうことだ」
「彼女が私に会いたがるんだ。求められるから応えてる――会って、話を聞いて、慰めて、飢えを満たしてやってるんだ」
「馬鹿な」
僕は即答した。信じるものか。だがそう思うのと裏腹に、脂汗は湧いてきた。話を裏付けるようなビビアンの振る舞いばかりが脳裏に浮かんできてしまう。
「そりゃ私だって、あんたがいるから引っ込んでようって、一度は思ってたさ」
ふてくされたようにノエルは続けた。
「私は、遅すぎた。隣国でそれなりに成功して、やっと彼女に顔向けができると去年戻ってきた。もし忘れてないなら迎えに行きたかった。
彼女を探そうとした矢先、偶然見かけることができたけど――あんたと抱き合ってた。あの日…プリンセスが生まれた日だ」
僕のプロポーズをビビアンが受け入れた、あの現場にノエルもいたというのか?
「その時はあんたが誰だか知らなかったけど、まさか仕事で組むことになるとはね」
「知っ…知ってて組んだのか? 知っててあの脚本なのか!?」
「最初からってわけじゃないけど、周りから聞こえるからね。信じたくはなかったけど。脚本は…最高の仕事をしなきゃいけないし、私にとって最高の女を書いただけだ。…あんたがつけた曲で確信した。
あんたが私よりも彼女を理解してるって
「悩むなよ! 譲るも何も、とっくにお前のものじゃないだろう!?」
僕は思わず声を荒げた。だがノエルは不快そうに片頬をぴくりと動かしただけだった。
「かと言って、あんたのものだと言い切れるのかい」
「何だと?」
「あの子は、本当に自分から望んであんたと一緒になったと思うかい…?」
「……」
確かに、彼女は誰とも再婚する気はなかった。それを、緊急避難を口実に僕は結婚を迫った。彼女にプロポーズしたとき、わざと選択肢も時間も十分には与えなかった。その姑息さをも明らかにして断る余地を残したように見せかけて、もっと断りにくくした。
彼女が、そんな僕の腹黒さも含めて愛してると言ってくれたから、後ろめたく思わずに済んでいる。
今更他人に突つかれたくらいで、動揺などするものか。
「…もちろんだ。信じてるとも」
「ふん、さっきよりも元気がないね。あんたはあの子のおかげでのし上がれたくせに、彼女を囲い込んで好きなこともさせないでる。私は見てたよ。あの子、ひどく生気のない顔をしてるじゃないか」
「それは…彼女が病気だからだ」
「あんたが病気にしたんじゃないのかい? 自覚ないのか?」
「…言いがかりだ…」
僕じゃない。後遺症を与えたのは僕じゃない。でも、僕の行いが彼女の体に取り返しのつかないダメージを与えたのも確かだ。
だめだ、これ以上動揺したら主導権をノエルに取られる。
「あの子が今ほしいものがわかるかい?」
畳み掛けられて、義理もないのについ僕は答えていた。
「僕と――僕と二人で、幸せな家庭を作っていくことだ…」
「それはあんたの願望だね。彼女は二人でいいなんて思ってない」
ああ…諦めていないのか…。きりきりと胸が痛み、僕は両肘をテーブルについて頭を抱えた。
「子どもがほしいなんてまた言い出してる」
「また?」
「恋して結ばれたら次は子ども、って言い出すのがあの子のお定まりだよ」
「でもあんたはそれに応えてやってない。それ以前に満たしてやろうともしてない。彼女を手放せないくせに、本性を知ってよそよそしくしてる。結局あんたも、私らみたいな人間を心の底じゃ軽蔑してるんだ!」
「待て、それは違う…」
僕は次々と投げつけられる言葉の礫に耐えるので精一杯だった。
僕がどれだけ尽くしても満足してくれないだろう、と気後れしているのは確かだ。でも軽蔑なんかしていない。思いの届かなさに悲嘆しているのはこっちなんだ。
それに、ビビアンは事情をすべて話してはいないのか? 後遺症でまっとうな営みが難しいことや、妊娠の可能性が絶望的に低いことを。
僕の戸惑いにお構いなしに、銛のように重い一撃が打ち込まれた。
「あんたが憎い」
ノエルは、冷たく燃える瞳で僕を見据えた。
「あの子の願いは、私じゃ絶対に叶えてやれない。それができるのはあんただけ。ただそういう体に生まれついたってだけで権利を手にできる、あんたが憎い…!」
激情を吐き出すと、ノエルは手元に視線を落とした。
「彼女…泣くんだよ。ないものねだりして泣くんだよ」
独白は続いた。
「何だよ。あんたは彼女をちっとも幸せにしてやれてない。あんたは、彼女から大切なものを奪い続けてる。彼女が彼女でいるために必要なものを与えず、ただ籠の中で痩せ細らせてるだけじゃないか」
「…彼女がそう言ったのか? 僕のせいで幸せじゃないって…彼女は、僕のことをそんな風に考えてるのか?」
ノエルは目を閉じ、ビビアンが言ったのであろう台詞を並べ立てた。それらは、今度こそ僕を切り刻んだ。
「『妻だなんて形だけ』、『もう手放してほしい』、『一緒にいる価値なんてない』」
「嘘だ…」
反駁の言葉はあまりに弱々しく、口の外に出ることさえできなかった。
耐えきれずに両手で顔を覆った。
ビビアン。
この一年の暮らしが、無意味なものだったなんて信じられない。僕らが育んだ暮らしは確かにあったはずなのに。
彼女の笑顔が、台詞が、ちょっとした気遣いが、それらの意味が全部裏返る。
「嘘だ…」
僕は力なく繰り返した。
「なら…なら彼女は、僕じゃなくてお前と生きたいと言ってるのか?」
ノエルは、僕の哀れな声に辟易するように薄く笑って答えた。
「…あの子は、自分は強欲だから欲しいものは全部手に入れると豪語してる。でも何かは諦めなきゃいけないのが人生さ。子どもを諦めてくれさえすれば、私は彼女の欲しいものリストの筆頭に繰り上がる」
彼女が子どもの次にほしいものはノエル。僕なんかもはや眼中にないってわけか。
「あの子は、私を『完璧に理想通り』って言ったよ。まあ、これを着けた上でのことだけどね」
ノエルは、隅の机に放っていたウィッグを引き寄せ、顔の横に並べてみせた。
長い金髪のウィッグか。
…昔、僕も似たようなものを使ってた。女の子のふりをしてビビアンと一緒に街歩きをする時の定番だった。何て遠い昔のことなのか。
ビビアンは僕を絶世の美少女なんて言ってたけど、つまりあれが理想だったんだろうな。でももうそんな女の子はどこにもいない。僕になった。
翻って、ノエルは中性的な顔立ちだ。そうでなければ男のふりはできまい。でも整っているから、ウィッグを着ければ謎めいた乙女に見えることだろう。
その瞬間、僕は理解した。
僕がかつて持っていた、少女のような少年のような曖昧さをそのまま温存して大人になった存在、それがノエルだった。けれども僕と違って中身は雄ではない。そしてそれこそが、ビビアンが僕を拒みノエルを求める理由なのだ。正に、『完璧に理想通り』だ。
僕はノエルに敗北したんだ。
彼女は僕の魂を愛してると言ったけど、裏返せば肉体は愛してないということだ。その事実から彼女自身目をそらすために、苦し紛れに言ってるだけなんだ。
「……っ」
自嘲したつもりが、漏れ出たものは嗚咽だった。
「僕が…僕がお前を憎いと思ってないとでも?」
お互い様だ。僕に備わっていないものをお前は持っている。そう生まれついただけで彼女に愛される。しょせん僕はまがい物だ。だから得た愛もまがい物なんだ。
「お前さえ現れなければ、それでも何とかやっていけたのに…」
「気の毒だけど、遅かれ早かれ破綻してたはずだよ。あの子は嘘がつけないからね」
これ以上粉々になりようもない自尊心を、なおも蹴散らされる。
往生際悪く僕は言った。
「…お前といたって結局子どもはいない。それでもお前を選ぶのか」
「子どもがいないのはどっちにしたっておんなじだ。それならより自分らしくいられる方を選ぶべきだよ」
「女二人じゃ暮らしも覚束ない」
「だから私は『ノエル・シェレトワ』でいるんだ。男でいれば稼ぎが違うし、いざとなったら結婚で合法的に彼女を守れる」
「…一生だぞ?」
「構うもんか。私も彼女を愛してるんだ。あの子のためなら、何を
ノエルは当然引き下がりはしなかった。それどころか、勝手とも思える理屈をこねながら盲目的なほどの愛を一方的に捧げようとしてる。
そのやり方は、まるで僕みたいだ。
改めてノエルをまじまじと見た。
いつか僕は、僕そっくりの奴に彼女を奪われるんじゃないかと、心の底でずっと怯えてた。
今がその時なのか――
煮え立っていた血が肩から蒸発していくような感覚を覚えた。
もう手放すしかない。
だが……。
だが、僕はどうなる…?
彼女を手放して、僕は生きていけるのか?
『僕は聖人君子じゃないから、振り回しすぎれば跳ね返る。それはちゃんと受けてもらうよ』
そうだ。
彼女を幸せにしたくて、救い出したくて、一体どれだけ尽くしてやっただろう。
なのに彼女はただ受け取るばかりで、あまつさえ粗雑に扱ってしまうんだ。それでも僕は苦笑いして許して、今度こそ喜ばせようとまた手を考える。
そんな風に振り回されるのを、僕は大して嫌とは思わなかった。
…今までは。
僕が彼女のために苦労して整えた場所に、彼女が招き入れるのは僕じゃなくてノエルだ。
こんな馬鹿馬鹿しいことがあるか。
この二人に、手に手を取らせてめでたしと、すんなり言ってやれるわけがない。
今僕の胸の中に渦巻く苦い気持ちを、二人にも味わってもらわなければ収まらない。
「ノエル」
今度は僕が奴を見据える番だ。
「お前の主張はわかった。彼女を…ビビアンを…自由にしてやってもいい。だが」
僕は立ち上がるとノエルの耳元に顔を寄せ、黒々とした声で告げた。
「条件がある」
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