疑念
* * *
「給金をもらい過ぎている?」
在宅仕事中の僕に、パットンさんが相談してきた。ビビアンは出勤済みだ。
「足りないならまだしも、多いとわざわざ申告してくれるなんて正直だね」
「恐れ入ります。大旦那様にも旦那様にもずっとお雇いいただいてますし、不誠実なことはできません」
パットンさんは僕の実家の使用人だったが、結婚を機にこの家へ移ってきてもらっていた。僕が雇い主なので給金は僕の手から渡している。
「それで、具体的にはどういうことだい?」
「その…旦那様が出張でご不在の時に、奥様が度々夕方で切り上げていいと仰ることがありまして」
「度々? そんなにしょっちゅうなのか。理由は聞いてる?」
「はい。お友達とディナーに行くので夕食の支度はいらないからと…」
お友達? 胸がざわりとした。
「…どんな人だ」
「お会いしたことはありませんが、最初のご結婚前の頃のお友達だとか。王都に戻られたことで再会されたそうです」
「名前は?」
「わかりません」
「…それで、給金に差が出るほど妻は頻繁に家を空けてるわけか」
「先月のお給金が変わらないので気のせいかと思ったのですが、さすがに今月もとなりますと…」
僕は内心で苦笑した。なるほど、黙っていられなかったのは給金でなく妻の動向か。
「わかった。どっちにしてももう渡したんだから返納しなくていいよ。あなたの忠誠心に感謝します。そのボーナスだと思って下さい」
パットンさんを下がらせ、机に目を戻したが何も手につかなかった。
全身から嫌な汗が噴き出している。
ディナーだけでなく、外泊してるかもしれない。
パットンさんを帰してから、見られないように家に連れ込んでるかもしれない。
名前も性別もわからない相手を疑うのは気が早いかもしれないが、わからないからこそ怪しい。
ビビアンの場合、男でも女でも可能性があるから厄介だ。
なぜだ。
寂しいからか。
浮気を心配したわけじゃないが長く家を空けないようにしてたけれど、それでも君には長すぎたのか。
僕は椅子を蹴って立ち上がり、寝室へ向かった。
毎日パットンさんが掃除してるけど、それでも何か痕跡がないか探った。枕の下に変な指輪が落ちていないか調べた。
彼女の
だが、ハンガーのドレスを一着ずつ見て、ついに見つけた。
この家の誰のものでもない、一筋の長い金髪を。
ああ…。
僕はその場にしゃがみこんだ。
決して気づかれてはいけないと言ったのに。
彼女は嘘を言わない。嘘を付くのが下手なんだ。だからはなから言わない。何でもあけすけに話す。それで僕を傷付けてしまうとしても、嘘を言うよりマシだと彼女は思ってる。
嘘を言えないからこそ、ごまかしなんてしないと思っていたのに。
…いや、前のときも一切素振りはなかった。
塞いだり怯えたりする様子をほとんど見せず、僕の前ではひたすら僕との幸せだけを味わおうとしていた。
それだけの気丈さを彼女は持っている。
今回も何か弱みを握られて脅されてるだけかもしれない。それなら話は別だ。どうにかこいつを捕まえて、秘密裏に手を引かせよう。ビビアンに聞けば、僕に事情を話すこと自体が負担になるだろう。前も解決まで時間がかかって手遅れになりかけた。
まだ動悸が収まらない。
もしかして僕は、都合よく考えようとしているんだろうか。疑った通りの事実が存在したらどうする?
落ち着け。
確かめないことにはわからない。
僕はそっと
* * *
ビビアンには、給金の件を注意した。
「ごめんなさい、月額固定給だと思ってたわ」
「住み込みから通いに切り替えた時に、時給制にしたんだ。説明したと思うけど? 早上がりの時は記録していてくれないと」
僕が不在中の勤務に変化があったらメモしておくようにビビアンには頼んでいた。もし泊まり込んでもらったら割増が必要になる。だが彼女はこの辺がルーズで、メモを取り忘れて口頭で「泊まりはなかったよ」と報告するだけだった。なるほど、これでは財団の経理が人頼みになるはずだ。
「僕と君の稼ぎの中からパットンさんの給金を支払ってるんだ。君だって、自分のお金を無駄に遣いたくないだろう?」
「はあい…以後気をつけるわ」
「頼むよ。ところで、また出張の予定が入ったよ」
「え、もう?」
「ああ。王都の近くの町で、できたばかりの楽団の指導をお願いしたいとさ。日帰りできなくもないけど、交流もあるし連泊した方が都合がいい」
用意した台詞を言うと、ビビアンは少し心細そうな顔をした。
「どのくらい行くの?」
「今回は三日間の予定だけど、以降はちょくちょく通うことになるよ」
「えー忙しそう」
「地方巡りが少し落ち着いてきたから、その代わりだよ」
「そっか。わかった」
「近所だからお土産がないけど」
「いいってそんなの! 頑張ってね」
彼女は明るく笑い、頬にキスした。
秘密があるとは思えないような仕草だった。
僕がこれから知ることが、裏切りでも脅迫でもなく、ただ単純な勘違いならそれが一番いい。
心からそう願った。
* * *
「来たぞ」
情報屋の囁きに、僕は顔を上げた。
商業地の主だった通りが交差する日暮れの噴水広場で、ベンチに座るビビアンに一人の女性が近づいていった。ビビアンは気づいていったん立ち上がり、手を取り合うとまた並んで腰掛けた。相手は女性にしてはやや長身で、つばのある帽子の下からすとんと長い金髪を見せている。帽子と時間帯のせいで、この死角からは顔がよく見えない。
僕は、近場に出張へ行くと偽って家を空けた。楽団指導の話は確かにあるが、それは来月からだ。あえて三日間の隙を作り、ビビアンの交流相手が現れるか監視することにしたのだ。
ダルトン家がたまに世話になるその手の業者に情報屋の紹介を頼み、監視に同行させてもらっていた。
何の動きもないことを祈っていたが、そんなわけがなかった。
「知り合いか…?」
見覚えがあるような気がするが、どうも心当たりがない。
「まあ待て」
情報屋に従うと、やがて彼女たちの前を通り過ぎた男がぐるっと回って裏手から僕たちの側に現れた。
「相手の女は、ナンシーと呼ばれてた。結構美人だぜ」
「ナンシー?」
ナンシー…聞き覚えがある。何だったか…そうだ、いつだかビビアンが伯爵夫人だった頃に侍女に手を出した、という話を聞かされた後で、そもそも女の経験はあるのか聞いてみたことがある。その時彼女が話した、初めて付き合った女の名がナンシーだった。
『付き合えてすごく嬉しかったけど、結局はあたしが一方的に舞い上がってただけだった。お父様に見つかってそのままとんずらされて、それっきり。きっと二度と会うことはないわ…』
悪条件でもさっさと嫁がされたのは、そのせいだろう。まあ破局してくれなきゃ僕との今もなかったわけだから、父親はいい仕事をしたものだ。
そのナンシーが、今頃現れたのか。そう言えばパットンさんも、昔の友達だと言っていた。
本当にそうなのかと驚く一方で、パットンさんに正直に話しすぎだろう、もう少し隠せよ…と呆れる気持ちも胸をかすめた。
二人はカフェで軽い夕食を取り、それから手を繋いだり腕を組んだりしながらまた歩いていく。
親密そうではあるが、仲のいい女性同士ならよくあることだ。本当にただの友達と旧交を温めてるだけかもしれない。
いい方に考えようとしてるのに、事態はどんどん進展していく。
二人が向かったのは、大抵の大人なら知っている歓楽街から、さらに奥まった先に続くいかがわしい通りだった。そこで彼女たちはすっと小路に入る。後から通り過ぎるふりをして横目で見ると、目立たないようにその手の安宿の入口があった。
「何てことだ…」
君がそんなにナンシーに心を残しているとは思わなかった。
いや、違う。
君はその女に脅されているんだ。
きっとナンシーは落ちぶれて、君を
金か、さもなくば体をと要求されて、仕方なく応えているんだ。
そうであってくれ。
顔を半分覆って落ち込む僕に、情報屋が声をかけた。
「どうする? 現場に踏み込むか?」
「……」
「旦那、顔が真っ青だぜ」
「…ああ、すまない。踏み込むのは待ってくれ」
僕たちは二人が出てくるのを待ち、ナンシーがビビアンを馬車に乗せて別れたところで捕まえた。
手下が彼女の腕を後ろに固めると、情報屋は明かりを灯して彼女の顔を照らした。
その瞬間、僕は全身の血が沸騰しそうになった。横から帽子と長い髪を掴み、力任せに引っ張るとどちらも彼女の頭から外れた。ウィッグと似たような色の短髪が露わになる。昼の光の下なら、麦藁色に見えるだろう。
歯の間から息を吐きながら、僕は恐ろしく低い声で彼女に言った。
「金輪際僕の妻に近づくなと言ったろう、ノエル」
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