ミモザ
* * *
いつものように、劇場近くのカフェにノエルはいた。僕は奴にずかずかと近づくと、一声かけて乱暴に胸ぐらを掴んだ。
「…落ち着けよ」
驚いた素振りをしているが、どこかおどけた感じでむかっ腹が立つ。
「貴様、どこまで知っている?」
「何をだ?」
ノエルはきょとんとした。
とぼけるな、と怒鳴ろうとしたところでカフェの主が僕たちをつまみ出しにかかった。仕方なく僕たちは建物の裏手に回った。ノエルが煙草をくわえて火を点けたので、ひったくって靴でもみ消した。奴は肩をすくめ、ポケットに手を突っ込むと壁にもたれた。
「ふざけるなよ、ノエル」
「だから何のことだよ」
「なぜあんな花なんか贈ってきたんだ」
「ああ。あんたを今年いっぱい独占させてくれたお礼さ」
「…それだけか?」
「彼女があんたの創作意欲の原動力なら、ゴマをすっておいて損はない」
本当か? それならそれでカニンガム氏がやるべきことだ。
「差し出がましい真似をするな。大体何でミモザなんだ? とっくに花の時期は終わってるのに、ご丁寧にドライフラワーなんか調達して」
「いけないか?」
「…妻はミモザが苦手なんだ。ちょっと嫌な思い出があってね。お前のびっくり箱のせいで今朝倒れたよ」
ノエルは薄ら笑いを消して真顔になった。
「それは知らなかった…悪かったな」
素直に謝られると毒気を抜かれてしまう。
「嫌な思い出って何だ? …『秘密の恋』とかか?」
前言撤回だ。反射的に拳に力がこもった。
ノエルが両手を挙げておいおいと言うように首を振ったので、拳を下ろして奴に背を向けた。
秘密の恋などない。
僕たちの仲は公然の秘密だった。百歩譲って秘密として葬り去りたいことがあるとしても、それは加害者と被害者の間に起きたことであり、決して恋などではない。
とにかくノエルは、せっかく塞がりかけたビビアンの傷を無頓着にも広げてしまったのだ。だがこの好奇心の収まらない下種野郎に詳細を教えるつもりはない。
僕は振り向いた。
「そもそも――そもそもだな、何の断りもなく人の妻に花を贈るな。お前だって変に勘ぐられちゃ困るだろう」
「ははっ、どう勘ぐられるんだよ」
「どうって、人妻に手を出すなんて――いや、お前はあれだったな…そしたら実際何も起きたりしないにしても、お前自身迷惑を被るだろう?」
「へえ。お気遣いありがとう」
見慣れた皮肉っぽい笑みに、余計なことながらふと気になった。
「お前は…『ノエル・シェレトワ』をいつまでやるつもりなんだ? 一生そのままとはいかないだろう。誰かと結婚したくなったりしないのか?」
「余計なお世話」
ノエルは笑い出した。
「私は男と結婚なんかする気はない。いつまでも『ノエル・シェレトワ』のままでいるつもりだよ」
「仕事のためか? ここは隣国とは違う。もう実力を見せたんだから、正体を明かしても皆は君を使うだろう。もう女として生きても問題ないはずだ」
「あーうるさいね! 話がずれてるよ。とにかくミモザの件は悪かった」
「…ああ、気をつけろ」
あまり引きずって仕事に差し支えても困る。僕は矛を収めることにした。
「ところで」
ノエルがにやつきながら肩に手を回してきた。
「別の勘ぐられパターンは気にならないかい?」
「別の?」
奴は耳に息を吹きかけそうなくらい顔を近づけた。
「あんた、地は美形だし、そのヒゲがセクシーだって噂してる連中もいるって知ってる? それで、私も人から見れば美青年だ。仕事でも一心同体の相棒みたいなもんだし、私が奥さんに宣戦布告した…って解釈も成り立つかもな」
「よせ!!」
今度は遠慮せず拳を繰り出すと、さっと避けられた。
「音楽家だろう、手は大事にしな」
彼は高笑いし、通りへ出て行った。
こいつが男だろうが女だろうが、噂の上でだって相手にするのは御免だ。
* * *
家に戻り、パットンさんからビビアンの様子を聞いた。
彼女は目は覚めているがふさぎ込んでおり、僕の戻るのを待っているそうだ。
「ビビアン」
寝室にノックして入り、ベッド際に腰掛ける。
彼女はすぐに起き上がった。
「ごめん、心配かけたね」
「いいんだ。もう大丈夫?」
「うん」
彼女にガウンを羽織らせ、肩を引き寄せた。
「ティモシー」
「うん」
「あたし、我がままを言ってもいいかな…?」
「何?」
彼女は、一点を見つめたままはっきりと言った。
「お願い、ノエル・シェレトワとは関わらないで」
「ノエルと?」
「お願い。あたし、あの人ともう関わりたくないの。あの人のこと知りたくないの。ティモシーに、あの人と話してほしくないの」
一、二度会っただけの人をこんなに拒絶するなんて珍しい。
確かに彼はミモザを送りつけるなんて言語道断なことをした。口の端に上るだけでも許せないということだろうか。
それとも、ひょっとしたらノエルが女だということに気づいて、僕がどうかするなんて心配をしてるんだろうか。
「落ち着いて。ノエルは仕事仲間だよ。何を心配しているの?」
「……」
ビビアンは僕の目を見つめ、何度か口を開きかけてはやめた。
「…あの人のことを考えると、目眩がする」
「それは…深刻だね」
ほとんど後遺症並みだ。いや、後遺症が再発したと考えるべきかも知れない。
「わかった。秋冬公演の話は白紙にしよう。代わりにホイットニー氏の話を受ける。それを皮切りに、他にも待たせっぱなしの地方を回れば当分干上がる心配はない」
「本当に、こんな時にこんな我がままを言ってごめんね…?」
「君の心身の方が大切だよ。ビビアン、君は明日ドクターのカウンセリングを受けてくるんだ。それできっと調子は戻るよ」
僕は彼女の肩をさすりながら言った。
彼女は口元を押さえ、息を震わせながら吐き出した。
* * *
覚悟していたことではあったが、カニンガム氏には厳しく批判された。契約前だったものの、一度受けると言った後だから仕方ない。真の理由は説明できず、今上演中の作品はたまたま波長が合っただけで次の成功は確約できない、ノエルには僕とだけ組むのでなく新しい可能性を試してほしい――などと色々苦しい言い訳をした。
僕の演奏仲間にも十分才能がある者がいるので、推薦することで何とか許してもらった。
事務所の外に出ると、話を聞いてたらしいノエルが待っていた。
「残念だな」
「君が悪いわけじゃない――とは言ってやれなくてすまないが、おふざけが過ぎたな」
「奥さんとはお近づきになりそこねたな」
「だから、そういうのはもう止めろって」
舌打ちすると、ノエルは肩をすくめて嘯いた。
「女同士、話が合うかも知れないじゃないか。あんたも私のことを知っててそうやって接してくれてるんだ。理解があるに違いないよ」
それは一理ある。僕に理解があるんだから、ノエルに対しても理解はあるだろう。
僕は改めてノエルを上から下まで眺めた。少年時代の僕がそのまま大きくなったようなノエル。むしろ男装をやめて素になったら、少女のふりをした僕そっくりになるんだろうか。
「だが手遅れだ。君は彼女に完全に拒否られてるよ」
「…そんなに奥さんが怖いのかい?」
「勘違いするなよ。まあ確かに怖いことは怖い。…彼女が壊れたり、彼女らしさを失ったりするのが怖いんだ」
「ひ弱だな」
「お前に何がわかる!」
「悪い、ちょっと妬けただけだ」
ノエルはいたずらっぽく言って瞳をきらめかせた。
「噂を少し聞いたよ。彼女、元はいい身分の未亡人なんだってね。一体どんなロマンスの末にあんたのものになったのか、気になるね」
「それこそ下世話だ。お前に話す筋合いなんかない」
「そういう話をたくさん聞き知ってると、
「お前みたいな興味本位の連中に、彼女を切り刻ませてたまるか! いいか、金輪際僕の妻に近づくんじゃないぞ」
くそ。話せば話すほど頭に来る奴だ。こいつともこれっきりなのが幸いだ。
まだ王都にいてくれたホイットニー氏には、出向くのでなくこちらのお茶に招待した。彼はビビアンに再会し、安堵の色を浮かべた。
「実を申し上げますと、お二人が心配でしてな。どちらもお若く真摯に仕事をしてらっしゃるのに、あえてあんな爛れた――失礼、野放図な――いえ、その、刹那的な関係を続けていては、ためにならないと。
改めてこうして地に足の着いた関係を築かれているのを見て、安心しましたよ」
本当に心から心配してくれていたらしい。何だかホイットニー氏が、頼りになる近所のおじさんみたいに見えてきた。
また、彼は旧伯爵領の様子も教えてくれた。領主が変わっても人々の暮らしには大して影響がなく、財団も大きな問題なく運営されているようだとのことで、何よりだ。
彼は、地元に戻ってヴァイオレット・ホールの日程を調整したらまた知らせると言って帰っていった。
「もし行ったらどれくらい空けることになるの?」
留守番になるビビアンが聞いた。
「大体十日、かかっても半月かな。行き帰りの日数と、リハと、夜二回は公演するし、間に昼の部も入るかもしれない」
「ふうん」
「寂しい?」
「まあね」
「何ならパットンさんに泊まってもらえば? 一人きりじゃ不用心だし、ダルトン家から誰か呼ぼうか」
「そんな! そこまでのことじゃないわよ。でもパットンさんには相談してみるね」
「ああ」
数日後ホイットニー氏から連絡が来て、かの地での公演は夏至の頃ということになった。楽団は現地のメンバーを使うが、以前にも僕の曲を演ってくれていたので気心は知れている。僕はバイオリンと最近の楽譜だけ揃えて一人で出掛けた。
王都での舞台公演が雑誌に載っているおかげで、ヴァイオレット・ホールにもよく客は来てくれた。さすがによその劇場で上演中の作品に使っている曲はここでは演れないが、去年の出世作を久々に聞けて満足してもらえたようだ。ホイットニー氏にも義理を果たせてホッとした。
* * *
旧伯爵領での公演は無事に終わり、僕はシーズン盛りの王都に戻ってきた。ハリー&カニンガム劇場のあの舞台も、そろそろ上演期間が終了する頃だ。あの劇場では二度と仕事できないだろうな、と自嘲しながら馬車を家へ向かわせる。
前庭へ乗り入れて荷物を降ろしていると、ビビアンが出てきた。
「ティモシー、お帰り」
約半月の独り暮らしで自立心が強まったのか、それともカウンセリングの成果か、落ち着いて自信に満ちた顔をしている。
「ああ、ただいま」
自慢の妻がいてくれる喜びを噛み締めながら、僕は彼女を抱きしめた。
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