あの夏の日の川べりに

* * *


 麦畑を縫うあぜ道を走り、堤を越えて転がるように駆け降りる。息を潜めて耳を澄まし、誰も追いかけてこないのを確認すると僕たちは草むらから這い出した。

「よっしゃ! もう大丈夫」

 ビビアンは、ぱんぱんと服を払いながら、川べりに立つ樹の下へ向かった。

「あースカッとした! あれ、本気で慌ててたわよね」

「…そうだね」


 子爵は、ビビアンのお母さんが本当に化けて出たと思ったようだ。最初はひどく驚いていたけど、「行いを改めないとあたしは母さんについてく」とビビアンが迫ってもすぐには答えなかった。

 僕は少し離れたところの草むらで後ろを向いて立ってたので、彼の表情はわからない。業を煮やしたビビアンが僕の手を取って走り出すと、子爵は悲痛な声を上げた。


『ま、待て! 誓う! 誓うから、ビビアンを連れて行かないでくれ!! ジャネット!』


 本当にいけ好かない奴だったら僕も気持ちよく笑えるんだけど、彼は愛人はさておきビビアンのことだけはちゃんと娘として大事に思ってるような気がした。

 こんなことをして、バチが当たらないかちょっと気がかりだ。

「心配するから、すぐに顔を見せた方がいいよ」

「…クソお父様は、十五年いなかったのよ? それに比べたらこれくらい…」

「ビビアン」

 木陰に座り込んだ彼女は、膝を抱えて口を尖らせた。

「いなかった人が現れるのと、いた人がいなくなるのとじゃ、わけが違うよ」

「……」


 川べりからの風が、黙り込んだ彼女の髪を乱す。

 僕も帽子を外して、火照った頬や首元に空気を送った。


 川は涼し気な音を立てて流れていた。

 水面は日差しできらきら光り、よく澄んだ川底では、流れが作る影が小石の上に落ちているのも見えた。

 頭上では繁った葉が真っ黒な影になって、その合間から見える青空と強いコントラストを作り出していた。

 僕たちのまわりでさらさらと揺れる草や、どこかその辺を飛んでいる蜜蜂の羽音、背後の麦畑を包み込む空気のうねりが何層にも重なって、通奏低音を作り出している。楽器では再現できない、大地の音楽だ。

「…ティモシー」

 そして、すぐ隣から主旋律。

「無理言ってごめんね。でも、あんたがいてくれたから本音をぶつけてやれた」

「本音って…あの捨て台詞が?」


『クソお父様はクソよ!!』


「ひどい台詞だ」

「ホント、ひどい台詞ね! はは、あはははっ!」

 彼女は吹き出し、二人でひとしきり笑った。

 まだくすくすしながら水面に目をやる彼女の横顔は、とても綺麗だった。

 木漏れ日が不規則に髪や肌にまだらな輝きを与え、さらに向こうの水面も一層きらきらするから、全てがまばゆく乱反射して世界を彼女だけにした。

 彼女もまた、僕を見て微笑む。

「感謝してる」


 見つめ合う僕たちは、どちらからともなく顔を寄せ、互いの唇に触れた。

 彼女の目の中に確かな気持ちを感じて、僕はもう一度唇を重ねた。ゆっくり、丁寧に。抱き寄せながら。彼女もまた僕の胸に手を置き――そして弾かれたように唇を離した。

 彼女は大きく目を見開き、やがてつぶやいた。

「ああ、ティモシー…」

 瞳に失望の色を浮かべて。

「あんた、女の子じゃなかったわねえ…」


 僕は悟った。


 全ての音が遠ざかり、自分の首筋が痛むほど速く脈打つのを感じた。

 後じさり、立ち上がる。何も言えないままさらに何歩か下がり、とうとう背を翻して走り出した。


* * *


「坊っちゃん!」

 夢中で走って通り道に出ると、馬車からデイヴが僕を見つけて呼ばわった。

「お屋敷には戻れません」

「わかってる。子爵は大騒ぎかい?」

 僕は馬車に乗り込み、ビビアンの服を脱ぎ始めた。

「いえ、子爵様とはすれ違ったようです。奥様がビビアン様のお部屋で坊っちゃんの服を見つけまして、娘の部屋で裸で何をしているんだと大層お怒りになって…どこに隠れているんだと探し始めましたので」

 うわあ、それはそれで厄介な展開だ。実際はやっとできたキスさえNGだったのに。

 僕たちが何をしていたのか、子爵の勘がいいことを祈ろう。

 僕は旅行鞄から着替えを出して身に着けた。ビビアンの服は、お母さんの形見でもあるし道端に置いていくわけにもいかない。次の宿できちんと包んで送ることにしよう。

 本当は、川べりに引き返せば彼女はいるだろう。でも今また顔を見るのは無理だった。


 僕はビビアンを、気長に口説けばその気になるだろうなんて甘く考えていた。

 でも彼女は決して僕を好きになってくれることはない。


 僕が女の子じゃないから。


 だからもう、どうしようもない。

 どうにもできないんだ。


「デイヴ、出して。急いで!」

 僕は御者台に向かって言った。

「野営になってもいい。今日中にカランを出たい」


* * *


 王都に逃げ帰った僕は、当然ながら父上に厳しく叱責された。

「殿下の御学友であるお前が何かしでかせば、殿下の評判にも傷が付くと長年言い聞かせてきたはずだ。ご卒業されて国を離れられた途端、こんな阿呆なことをするとは!」

 それでも子爵との間で話をまとめ、ゴシップが流出しないよう何とか収めてくれた。

 休みの残りは自室謹慎させられたけど、僕も誰にも会いたくなかったので幸いだった。

 部屋にこもりながら、僕は取材したものの整理もそっちのけで、ひたすら曲を作り続けた。


 ロンド。

 ソナタ。

 パルティータ。


 彼女を想うと、いくらでも旋律は溢れてきた。


 せせらぎ。

 葉陰。

 大地のうねり。


 でも、あの光景を再現するような名曲に仕立てる技量がまだないのが、悔しかった。


 彼女の笑い声。

 彼女の横顔。

 彼女の瞳。


 思い出すたびに輝きを増していく。

 あの夏の日、あの川べりに僕は初恋を置き去りにしてきた。

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