田舎道

 目に焼き付くような陰影の濃い青草が茂る田舎道を、小さな馬車はゆるゆると進んでいった。周りには燕麦や豆の畑が広がり、農家の庭の囲いの中を豚やアヒルが闊歩していた。道は時々小川の側に寄り、水面の輝きで少しばかり涼しい気分を分け与えてくれた。


「坊っちゃん、あそこのお屋敷みたいですな」

 御者台から、デイヴが声をかけてよこした。彼はこの旅に連れて来た使用人で、僕が物心ついた頃からの付き合いだ。僕が周りに繰り出す様々ないたずらにも辛抱強く付き合い、やり過ぎを諌めることもあれば仕込みを手伝うこともある、気のおけない部下だ。

 馬車からひょいと頭を出すと、通り道から私道が分かれ、両脇に並ぶ木立に導かれた先にそこそこ小立派な屋敷があった。エントランスの外にいた誰かが馬車を認めて大きく手を振ると、こちらに向かって駆け出してきた。ビビアンだ。

「降りるから止めて」

 僕はデイヴに言い、馬車が速度を落とすとぽんと飛び降りた。


 ビビアンはスカートの裾を翻して全力で走ってきた。健康的な脚が膝まで見えている。

「ティモシーぃ!」

「やあ、ビビアン。相変わらず元気だね。でも馬車の前に出ちゃ危ないよ」

「ごっめん。とにかく嬉しくって」

 えへ、と肩をすくめて笑う姿にちょっとやられそうになる。

「どうしてた?」

「もう死にそう! 助けて」


 馬車を先にやって二人で歩く。エントランスの前では、数人の使用人と女主人――オリアリー子爵夫人が立って僕の到着を待っていた。頬骨が高くて顎が広く、確かに口うるさそうな雰囲気だ。

 夫人は、ビビアンをギッと睨んだ。

「ビビアン! 何ですか、いきなり走り出すなんて! そんなお出迎えの仕方がありますか! あり得ないにも程があります」

 ビビアンは、さっきとは全く違ったふてぶてしさで肩をすくめ、黙って夫人の後ろに回った。夫人がこちらに視線を向け直したので、僕は挨拶した。

「ティモシー・ダルトンです、初めまして。この度は訪問をお許し下さり、感謝いたします」

「マティルダ・オリアリーにございます。ダルトン様をお迎えできて喜ばしい限りです。ようこそおいで下さいました」

 夫人は、すごく気取って一礼した。気取りすぎて「マティルダ」が「まっってぃ〜ぅだ」に聞こえるほどだ。これからは心の中で、まっちー夫人と呼んでやろう。

「あいにくと主人は商用からの戻りが遅れておりますの。途中の峠が先日の嵐で塞がれたとのことで…明日には帰れるはずですので、ご予定に差し支えなければお待ちいただけますと幸いですわ」


 子爵にはそんなに会いたくない。不在と聞いてちょっとホッとしたのに、スルーは無理そうだ。

 当初の予定では、旅程の終わりに本当に数時間だけ立ち寄るつもりだったのだけど、ビビアンがそれを許さなかった。旅程を手紙で伝えた時、一泊でもいいからしていけと返事が来て結局折れた。その後、僕が西部を回っている間に父上から子爵にも改めて依頼の手紙が届いているはずだ。父上の手前もあるから、会わずに出発するなど礼を欠いたマネはできない。

 ちなみに二人の息子は出掛けており、晩餐の時に紹介すると言われた。

 まっちー夫人は内心では迷惑そうなのが感じ取れた。お茶を振る舞われたものの、この忙しいのに都会の貴族は優雅なもんだとか、堅実な仕事にも就かず浮ついた芸事で食っていこうだなんてとか、そんな本音が隠しきれていなかった。お陰様で、居心地が悪いとこぼすビビアンの気持ちをちょっとは共有できた気がする。


 なお、晩餐では息子たち――マシューとジョナサンと言った――は母親と同じ感想をまるで隠しもせずに言ってのけてくれた。その上、ビビアンとはどんな関係だとまで聞いてくる。なるほど、頭が悪いね。察するとか好意的に誤解するとか、そういう機微はないらしい。


* * *


「…ビビアン、誰かに見つかったりしない?」

「へーきへーき、皆忙しいから」

 ビビアンは、自室のクローゼットからドレスを物色していた。子爵の帰宅を待つのに飽き飽きした彼女は、僕の趣味に合うものでも探そうと言い出した。

「ほら、これなんかどう?」

「…地味すぎる」

「それも有りじゃん。素朴な村娘のレパートリーも増やしたら?」

「あのさ、ビビアン」

「ん?」

「気持ちは有り難いんだけど…その、僕はこの趣味そろそろ潮時だと思ってるんだよね」

「ええ〜?」

 彼女は、僕の目の前に掲げてみせたドレスの横から顔を出し、不満げな声を上げた。

「さすがにあちこち骨張ってきてるし、声も作ってもやっぱり不自然だし」

 僕は彼女の前に両手を広げ、裏表を交互に見せた。

 手首や手の甲の骨はごつく浮き出し、ぴんと伸ばした指は関節ごとにでこぼこして産毛も濃くなりつつあった。大きな手は、バイオリンの弦を押さえたりピアノを弾くにはいいけれど、乙女のようとはもう言いにくい。


 僕の数ある趣味の半分くらいはいたずらの延長だ。その中でもお気に入りだったのが、女の子の格好で街を歩いて、声をかけてくる男たちをからかうことだ。メイクとウィッグで印象を変えれば、男の子だってことも、どこの伯爵子息だってことにも、気づかれることはなかった。

 引き立て役が欲しくてビビアンに手伝わせたら、僕よりも気合を入れて飾り立ててくれるようになった。喉仏が目立つと言ったら、可愛くリボンを巻こうなんてアイデアも出してくれたりした。全く僕たちはいいコンビだった。

 でもそろそろ限界だ。小柄だから声変わりしても影響は小さかったけど、それでも男性ホルモンが全身に及ぼす変化は避けられない。それに、数カ月後には十八歳おとなだしね。


「君のサイズなんかもう入らないよ」

「…確かに、あたしより背が高くなったわね。腕も長い」

 ビビアンは一歩前に出ると、僕の体すれすれに肩を合わせて腕の長さを比べた。彼女が頭を動かすたびに、両耳の上で結った髪の房が僕の顔や首筋を叩く。

「ね? こないだも失敗しちゃったし、もう無理だよ」


 夏休み前の街歩きでは、なるべく喋らないようにしていたけど何か不自然さを察知した相手に腕を掴まれ、逃げようとした拍子にウィッグが外れてしまった。無理やり逃走したけど大失態だった。それに、ウィッグとリボンと手袋を絶対に外せないので、暑くて仕方なかった。


「むー…。あ、それなら…」

 またビビアンは何かを思い付くと、クローゼットを再び探った。今度取り出したのは、今までで一番野暮ったいエプロン付きドレスだった。

「これ、母さんのお下がりなの。あたしも前に着てたけど、ちょっとぶかぶかなのよね。ねえ、これ着てみてよ!」

「だから、サイズだけの問題じゃないよ」

「二人っきりだしいいでしょ。お願い、あたしが見たいの」

「でも、大事なものじゃ…」

「お願い」

 ああ、勝てない。

「…本当に最後だよ」

 渋々シャツの前を開き、袖口のカフスも外す。ドレスを身につけると、ズボンも脱いだ。

 好きな女の子が着ていた服を、本人の目の前で袖を通すなんて色々な意味で倒錯的だ。もう何のプレイだろう。

「裾が短いね」

「あたしが着る時に丈を詰めちゃった」

 ドレスの裾からは、くるぶしが見えていた。僕はあえてもう少したくし上げて、エラの張ったふくらはぎと脛毛を見せてやった。我ながら見苦しい。これで諦めてくれないものかな。

「ほら」

「わー…脛毛も金色なんだ? 指毛も金色だったよね。やっぱり髪と同じなんだあ」

「注目するとこ、そこ?」

 逆効果だったみたいだ。ビビアンはしゃがみこんでじっくり検分してる。むしろこっちが恥ずかしくなったので急いで裾を下げた。

「まあいっか。ふふ」

 ビビアンはちょっと離れて僕を上から下まで眺めると、とん、と抱きついてきた。

「ビビアン!?」

「へへ。ちょっとだけ、ちょっとだけ!」

 そう言って胸元に頬ずりしてくる。

「本妻が嫌がるもんだから、あたしも滅多に着れなくなっちゃったのよね…」


 ビビアンのお母さんは三年くらい前に亡くなった。それまでは二人で寄り添って暮らしてたのに、いきなり父親のここオリアリー家に連れてこられたので、まだ整理がついてないところがあるんだろう。

 僕は彼女のお母さんじゃないし、この格好をしたからって代わりに抱きしめてあげるのも違う気がする。


 抱きしめるならもっと別の理由で、別の格好をしている時にしたい。


 好きな女の子の服を着込んだ僕に、当の本人が抱きついてきて、しかもこれは母親の形見。本当にもう、一体何のプレイだろう??

 硬直したまま大きくため息をついたら、ビビアンはやっと我に返ったみたいだ。

「ごめんね、ティモシー」

「別にいいよ」

 まだ抱きついたまま、顔だけ少し離して見上げてくる。

「ありがと。…あのね、もうちょっっ……とだけ、付き合ってくれないかな?」

「まだ何か!?」

「あたしね、いっぺんでいいからクソお父様にギャフンと言わせてやりたいのよね」

「……なるほど」

 この体勢で頼まれたら断れないの、わかってやってるよね。本当に君はあざとい。


 それから彼女は、やはり母親の形見の帽子とスカーフを引っ張り出し、僕に被せた。頭を帽子ごとスカーフでくるんで顎の下で結わえると、顎までしかない髪の短さは目立たなくなった。僕は素足が見えないようにゲートルを付けた。

 まっちー夫人にばれないよう、オリアリー子爵には私道へ入る前にいたずらを仕掛けることになった。ビビアンが使用人の気を引いている間に、僕は人目を避けて屋敷の外へ回った。秘かにデイヴにも声をかけ、早めに荷物をまとめさせた。どのみち今日中にお暇する予定だけど、もし変な揉め方をしたら、悪いけどすぐさまとんずらさせてもらう。


「峠が塞がってるなんて嘘よ」

 外の茂みに潜んで子爵を待つ間、ビビアンが事情を話した。

「あたし、知ってんの。あっちの村にも愛人がいるのよ」

「それ、まっちー夫人は知ってるの?」

「多分ね。そんで、マシューもジョナサンも頭が悪いからそんなとこばっか見習って、それぞれ別の村で励んでるわよ」

「あー…それは、人口が増えそうで何よりじゃ…ててて、ごめん!」

 ほっぺたを思い切りつねられた。

「本妻は、持参金をたんまりくれるいい家柄から嫁が欲しいけど、それまであの二人を大人しくさせてられなくって。そのイライラがあたしに向かってくんのよね。あんたはそんなふしだらな付き合いをしたら絶対許しません、て」

「年頃の娘がいれば普通だよ。僕に当たりが強いのも仕方ないね」

「まあ本妻は正直気の毒よね。とにかくダメなのはクソお父様よ。あたしみたいな子どもをこれ以上増やすのは許せないわ。懲りないことにはクソお父様のクソは止まんないわよ」

「クソクソうるさいなあ」

「しっ。来たみたい」

 僕の方がうるさい扱いになったことには納得行かないけど、とにかく話を止めて僕たちは陽炎に揺らめく道の向こうを見やった。

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