第一章 友人

小悪魔

 音楽室の窓からは、六月の上機嫌な青空が広がっていた。


 下校してゆく学園生たちの足取りは軽い。年度末の試験を全て終えた開放感と、間もなく始まる夏休みに心が浮き立っているからだ。

 僕は、そんな皆の気持ちをバイオリンの音色に写し取っていった。気ままに、軽快に、伸びやかに。聴く者の心が吸い込まれていくように。


 これなら彼女も退屈しないだろう――と振り返り、弓が止まる。期待は見事に裏切られた。

 そこには、だらしなく椅子に体を預けて絶賛居眠り中の自称「学年で一、二を争う美少女」の姿があった。…まあ、いつものことだ。軽く椅子を蹴ってやると、彼女はびくんとして目を開けた。

「ふぁっ!?」

 一瞬きょろきょろし、目の前にいる僕に気づく。無言で小首を傾げてみせると、悪びれもしない台詞が出てきた。

「あ、ティモシー。もう気が済んだの?」

 その言い様に僕はがっくりと肩を落とした。

「あのさあ、ビビアン」

「何よ」

「もうちょっとこう、言い方はないの?」

「ええ? うーん…あ、いい曲だった! 多分、いい曲だったと思うよ?」

 ビビアンは一瞬めんどくさそうな顔をすると、適当な返事をして適当な拍手をした。笑顔だけは最高にいい。

 栗色のふわふわ髪に囲まれた大きな目と小さな口で作り出す、本人曰く愛くるしい笑顔が彼女のチャームポイントだ。まあね、僕も大筋では同意するよ。動いたり喋ったりしなけりゃね。

「…もういいよ」

 僕がバイオリンをしまい始めたのを見て、彼女も椅子を片付ける。

「今度こそ君も気に入ると思ったんだけどなあ」

「ごめーん。音楽とか全然わかんなくってさ。そういう、お貴族様の優雅な世界ってどうも慣れないのよねー」

「そんなんじゃ、玉の輿には程遠いね」

「んぐ」

 ちょっと突ついてやると、田舎育ちの子爵令嬢はさっと顔色を変えた。

「子爵家は貧乏だし、自分だけ腹違いの子で居心地は悪いしで、何とか都会でいい身分の男を捕まえて羽振りのいい暮らしをしたい、ってのが君の口癖だろ?」


 この学園は、王侯貴族やエリート市民の子女に開かれているので、その気になれば玉の輿候補はいくらでもいる。最近は成人までは婚約者を決めない家も多くなっているので、学園にいる間に少しでも条件の良い相手を見つけようと気合が入ってるご令嬢は珍しくない。ビビアンもそんな一人だ。

 二年前、奨学生として転入してきたばかりの頃は、髪型も服装も垢抜けてなかった。でも顔立ちやちょっとした仕草には、うまく磨けば光ると思わせるものがあった。

 もし彼女が自分の魅力を自覚してしっかり伸ばしていたら、小動物っぽくて愛らしいと虜になる男子が続出してたに違いない。一方で、女子は彼女を「あざとい」としか言わないだろう。評価が割れればますます関心は高まり、真実を見極めようとアプローチを仕掛ける男子がもっと寄ってくる――そんな光景が繰り広げられてたはずだ。

 なのに、ビビアンは全然努力しなかった。せいぜい「垢抜けない」が「地味」になった程度だ。内心では自分が美少女だという自覚があるにも関わらず、何でだか努力の方向がおかしかった。アピールもせず悪目立ちもせず、ひたすら空気のようにモブとして溶け込もうとしているみたいだった。


「二年も経つのに、全然成果が上がってないじゃん」

 さらに突っ込むと、彼女は口を尖らせた。

「あたしの計画が進まないのは、あんたがまとわりつくからでしょ」

「まとわりつくとは心外だね。君んちは子爵でうちは伯爵家。君にとっては僕も十分利用価値があると思うよ? 僕これでも結構君を買ってるんだよ。本気で見初められようと頑張ってみてもいいんじゃない?」

「もう! 何回も言ってるでしょ? あんたはお断りよ、長男でもないし」

「つれないなあ。僕に気がなくても、近くにいれば極上の玉の輿に乗れるチャンスがあるかも、って取り入ってくる子は多いのに」


 僕たちの一つ上の学年には、我が国の王太子であるアーノルド殿下が在籍されていた。身分は言うに及ばず、人柄・文武・容姿全てに優れておいでで、これ以上の玉の輿なんてこの大地のどこを探してもないだろう。おまけに婚約者を定めていなかったから、皆が血眼になってもおかしくなかった。もうご卒業になるけど、結局フリーのままだったので誰も彼を捕まえられなかったわけだ。

 殿下の視界に何とか入ろうと、彼の友人たちにアプローチしてくる女生徒も多かった。もちろんそういう手合から守るのも友人たちの役目でもあったから、下心がある子はことごとくふるい落とされた。


 何を隠そう、僕もその友人の一人だ。

 自分で言うのも何だけど、僕は女の子と見紛うほどの美少年との定評がある。顎下で揃えたゆるいウェーブの金髪と、ぱっちりとしたブルーグレーの瞳。小柄で清楚であどけない雰囲気の僕に、警戒せずに近寄ってくる身の程知らずの子がいたら、ちょいといたずらを仕掛けてボロを出させてやるのが秘かな楽しみだ。

 ビビアンみたいな面白い素材は、どう育つのかぜひ見届けてやりたいと思ってた。何なら僕が磨いてエスコートしてあげてもいいから、ぜひ殿下の前で右往左往するところを見たかった。

「ダメダメ! それがダメなの!!」

 ビビアンは両手を勢いよく振った。

「何がダメだって?」

「殿下に個体認識されたくないんだってば。それに、あんたたちもよ。殿下と友人ご一同にうっかり気に入られたら、アナスタシア様に睨まれちゃう」

 アナスタシア様は、公爵令嬢にしてアーノルド殿下の元婚約者だ。ちょうどビビアンが転入してきた頃に婚約を解消されたから、その時点で殿下の交友関係に口を出す権利を手放してると言える。そもそもアナスタシア様は非常に公平な方で、人を恨んだり貶めたりなんかしない。

「考えすぎじゃない?」

「いーや! アナスタシア様が本気になったら、何をされるかわかんないわよ。想像しただけでもう…ゾクゾクしてきちゃう」

「その忌避感は一体どこから来るわけ?」

「…あんたには関係ないわよ。とにかく!」

 彼女はあたふたしてたかと思うと急にスンとなり、今度は僕にビシッと人差し指を突きつけた。忙しい子だ。

「あたしはね、人知れずモブに埋もれた有望株を探したかったの。なのにあんたとつるまされてばっかりで、全然はかどんなかったわ!」

「そりゃ僕は級長だからね、君の面倒を見る責任があるよ」

「そんなの最初の一カ月で十分でしょ」

「試験対策もしてあげなかったら、きっと君は赤点だらけで早々に退学になってたね」

「ぐっ…」

 ビビアンは言葉に詰まると小さな口をぱくぱくさせた。僕は側のピアノに寄りかかり、片肘で頬杖をつきながらその様子を眺めた。

「便宜を図ってやったお礼は、こうして僕の趣味の時間にちょっと付き合ってもらうだけなんだから安いでしょ?」

「その『ちょっと』の回数がハンパないのよ」

「とか言いながら律儀に付き合ってくれるんだから、君も本当は満更でもないんだろ?」

「……」

 もう抗弁できないと見えて、彼女は目を逸らした。ちょっと頬が赤くなってる。くるくる表情が変わる馬鹿正直さは、いっそ愛おしい。

「ねぇビビアン」

「何さ」

「僕、君を好きだよ」

 好きな絵や好きな曲に出会ったときみたいに、思わず浮かぶ笑みとともに伝えてみる。

「ちょっちょっちょっ…! またまたまた!」

 たちまちビビアンは真っ赤になった。

「今度は何を企んでんの!? あんたが腹黒なのはとっくにお見通しよ! 絆されたりしないんだから!」

「ひどいなあ」

「あんたが女の子だったらね、そりゃ気兼ねなく好き好き言ってあげれるけどさ」

 …まったく手強いな!

「じゃあ言ってよ。お友達の『好き』でしょ? 僕もそのつもりで言ったんだけど?」

「…え」

「なーに勘違いしてんの?」

「え、え、え…」

 硬直してる間に、僕は荷物を掴んだ。

「…も〜〜…ティモシー!!」

 彼女が床を踏みつける音を背に、笑いながら扉を開けて飛び出す。廊下を少し走って振り返ると、間をおいて彼女も飛び出てきた。ばつの悪そうな顔をしながらどすどすと歩いてくるのを、こっちはニヤつきながら待つ。何だかんだ言っても、このくらいで気まずくなったりしないのが僕たちだ。


* * *


「ティモシーは、夏休みどうすんの?」

 校舎の出口に向かいながら、夏休みの予定の話になった。来月からは学園生活最後の夏休みとなり、それが終われば僕たちは最高学年だ。

「取材旅行に出ようと思ってる」

「取材? 何を?」

「音楽だよ。その地方でしか知られていない唄や舞曲を、集めて回るんだ」

「何でそこまで?」

「言ったことなかったっけ? 僕は将来、音楽で身を立てられたらって思ってる。演奏するにも作曲するにも、レパートリーの広さは武器だよ」

「音楽で? あんたんち伯爵でしょ」

「伯爵なのは父上だよ。うちは領地なしの宮廷貴族だし、上には兄が一人、姉が二人。末っ子の僕が継がせてもらえるものなんてたかが知れてるからね」

 むしろ何ももらえないと考えといた方がいいくらいだ。教育だけは音楽も含めて存分にさせてくれたけど、だからこそ身につけたものを十分活用しろということだろう。

「さっきは利用価値があるって言ってたくせに…」

「玉の輿とは言ってないよ。でもコネは色々あるからね」

「まったく、小狡いわねえ。口先でごまかししてると、後で泣きを見るわよ」

「はいはい、ご心配ありがとう。もうその辺の話はいいだろ」

 どうせ僕は君にとって攻略対象外なんだし。

 そこで彼女は話を戻し、行き先を聞いてきた。

「えーとね。去年は北部を回ったから、今度は西部に行ってみるつもり」

「ふーん、西部。…ねえ、カランにも来る?」

 カランはビビアンの出身地、つまり子爵領だ。彼女は通常は寮暮らしだが、夏休みは実家に帰る予定だ。

「どうしようかな? 近くを通るかもしれないけど…」

「だったら絶対寄ってって! あの家に二カ月も閉じこもってると思うともう、気が滅入って死んじゃいそう。あんたの顔が見れたら何とか新学期まで持ちこたえられるわ」

 子爵家には口うるさい義理の母親と頭の悪い兄が二人いるそうで、長期休みが明けるたびに愚痴られている。カランには珍しいものはなさそうだけど、悲壮な顔で迫られるのでちょっと考えてみることにした。

「わかったよ」

「やったぁ! 約束よ?」

 彼女はぱっと明るい表情に戻ると、僕の片手を取ってぶんぶん振った。

「あ、そうだ。明日も街歩きの約束してたよね。そっちも楽しみ!」

 街歩きは、僕が彼女に付き合わせる趣味の一つだ。

「やっぱり僕より喜んでるな」

「え、そぅお? んー、…ふふん」

 彼女は一瞬ムッとすると、すぐに人の悪そうな笑みを浮かべた。

「だってさ、あたし、街歩きのときだけは、あんたのこと大好きだって思っちゃうのよね」

「っ……」

「赤くなった! やーい、あたしをからかおうなんて三十年早いのよ!」

「ビビアンっ…!」

 今度は僕が彼女を追いかける番だった。


 僕はこれまで自分を小悪魔として演じてきたけど、彼女の方がよっぽど小悪魔らしかった。

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