第二章 恋人

失望

 あたしには、前世の記憶があった。

 十五歳でこの学園に転入したと同時にそれを思い出した。


 この学園は、あたしが前世でやり込んだゲームの舞台で、あたしビビアンはそのヒロインだった。厳密には、そのゲーム本編ではヒロインであるものの、スピンオフ作品ではライバルキャラと立場が逆転し、最終的に破滅させられる悪役だった。

 ヒロインとしては、同じ学園に通うこの国の王太子殿下やその友人たちの誰かと恋に落ちてハッピーエンドを迎える。ところがその際に蹴落とした邪魔者の公爵令嬢が、スピンオフの主役となって皆に復讐する。そういうシナリオだった。

 学園への転入は、前者のゲームのオープニングイベントだった。


 その記憶を思い出す直前までは、田舎貴族の愛人の娘として生まれたにわか令嬢のあたしは、ここで玉の輿を狙うのを最大目的にしてた。動機の不純さはともかく、もしそのままゲームの展開よろしく綺羅星のようなイケメンたち相手に青春を謳歌しようとしたなら、破滅まっしぐらだってことに気づいて震え上がった。

 だからあたしはささやかな野望を引っ込めて、彼らの目に留まることのないモブとして生き延びる道を選んだ。その甲斐あってかどうか知らないけど、その後はゲームのような展開はほとんど起きることなく、至って地に足の着いた日常が流れていった。ひょっとしたら、ここがゲームの世界だなんてのは壮大な勘違いかも、なんて思えてくるくらいだった。

 序盤の混乱が落ち着けば、頭の中に渦巻くハイテンショントークも次第に鳴りを潜めていった。


 あれから二年経ち、最大の脅威だった公爵令嬢や王太子殿下は卒業していった。スピンオフでのエンディングイベントを迎えるはずのタイミングがついに過ぎ去ったわけだ。もうあたしは、あるのかないのかわからない破滅の運命に怯えなくても済む。

 ゲームが終わっても人生は続く。ここがゲームの世界じゃなかったとしても、やっぱり人生はある。あたしは、やっと本当の人生を始められる。そう思ってた。


 そのはずだった。


* * *


 ティモシーは、王太子殿下の友人の一人だった。殿下の一つ下で、あたしと同じクラス。ゲームの世界観で言えば、いわゆる攻略対象。小柄で、ゆるウェーブの金髪ボブで女の子みたいな顔立ちだけど、中身は腹黒小悪魔キャラって設定だった。実際に接してみると確かにいたずら好きで、都会慣れしてないあたしはしょっちゅうからかわれた。


 例えば転入して二、三カ月した頃、年度末に学園で舞踏会があるからとティモシーにダンスの猛特訓をさせられた。あたしは転入直前に父親のオリアリー子爵家に引き取られたばかりで、それまでただの村娘だった。だから、社交ダンスなんて優雅なものには無縁だった。ティモシーによれば、そもそもあたしはリズム感が絶望的に欠けてるらしい。


『脚を上げない、飛び跳ねない! それじゃワルツじゃなくてマズルカだよ』


 頼んでもいないのに彼は、あたしが恥をかかないよう級長として面倒を見る責任があるからと、厳しくも辛抱強く指導した。ウォーキングやカーテシーまで練習させられ、ダンスも何とか形になった頃、やっと合格を言い渡してくれた。でも続く台詞には唖然とさせられた。


『でも僕たちは第三学年だから、今年は参加する資格はないんだよね。まあ基礎は身に着いたから、あと一年練習すれば来年は立派に踊れるんじゃない?』


 この苦労は何だったの!?と地団駄を踏むあたしに、涼しい顔で重ねて言う。


『玉の輿を狙うならダンスは人一倍うまくなくちゃダメだよ。人前に出せないレベルから人並みに引き上げたんだから、むしろ感謝してほしいな』


 あたしの野心を見透かした上で泣きどころを突いてくるんだから始末が悪い。どうせ田舎者よと開き直った方がいっそ楽だった。


 ティモシーとは親しくなりたくなかったのに、彼は何でだかあたしを買っていて、事あるごとに「磨けば光るのに」とか「もっとあざとくなれば」とか煽ってきた。そんなの言われなくてもわかってるし、なのに泣く泣く封印して破滅回避のために必死でモブに甘んじてたから、これには心底イライラさせられた。


『うっさいわね。あたしだって本当は、小動物のような愛くるしさを全身に纏わせた美少女なのよ。その気になれば表情一つ、仕草一つで男の子たちを虜にするくらい簡単なんだから』

『へーえ。じゃあいっぺん見せてもらおうじゃん』


 それでうまいこと乗せられて、なぜか次の休みに彼とデートすることになった。

 ところが、待ち合わせ場所に立っていたのは、あたしとはまた違った系統の美少女だった。前世で言うところの妖精か天使かといった、夢から抜け出てきたみたいな儚げで可憐な女の子。


 あたしが思わずため息をついて固まってると、その子は目をじっと見ながら小首を傾げた。見覚えのある仕草に、それがティモシーだってことにようやく気づいた。あまりに自然な佇まいだったので、驚きよりも賛嘆しか浮かばなかった。


『何ぼけてんの。どっちがより多くナンパされるか勝負しようと思ってたんだけど、もう白旗?』

『え、デートってそういうデート? てか、あんたナンパされても大丈夫なの』

『適当にあしらって逃げるから平気だよ。君こそ、都会の洗練されたアプローチについてこれる? エスコートのされ方、教えてあげようか』

『バっカにしないでよ! こちとら腐ってもヒロイン、あたしのあざとオーラを浴びたら誰だってちやほやせずにいられないんだから。エスコートの方なんて生まれる前からマスターしてるわよ』

『いいねいいね、お手並み拝見』


 よくわからない流れで、あたしたちは奇妙なデートに時々繰り出した。でもナンパ勝負なんて下らないことはすぐ放棄した。だってあたしは、街で注目の美少女なんて危険なポジションにつくわけにはいかなかったから。

 それで、学園でも大人しくしてるストレスも相まって、ティモシーを飾り立てる方向に発展した。彼はさすが生まれながらの貴族の所以で指の先まで自然な優雅さが行き届いてた。おっとり喋ってふんわり微笑んで、いつまでも飾っておきたいお人形のようだった。ナンパのターゲットになんかさせないで、あたしがもらって帰りたいくらいだった。


 二人の秘密の趣味は、あたしにとって大切な時間になりつつあった。

 でもティモシーが男の子である以上、その時間は終わらざるを得なかった。


* * *


 夏休みにわざわざあたしの田舎に立ち寄ってくれたティモシーに、あたしはひどいことをしてしまった。


 あたしは、ティモシーを本当に好きだった。

 ティモシーがあたしを好きなのもわかってた。

 あたしの服を着たティモシーにどきどきした。

 エスカレートする我がままも素直に聞いてくれる彼が愛おしかった。

 あたしを眩しそうに見つめてくれるのが嬉しかった。

 彼はあたしにとって、秘密も企みも共有する最高の相棒だった。

 そんな彼を、あたしは。


 彼のキスを受けた時、あたしは歓喜に震えた。

 「歓喜に震える」って、こういうときに使う言葉なんだと思った。

 生きててよかった。世界はあたしの味方だ。


 彼を何よりも近くに感じたい――そう思って伸ばした手は、彼の胸に当たって布地越しに早鐘の響きを伝え――同時に、ただ固い彼本来の体つきを唐突に実感させられ――あたしは失望した――失望したことに、激しく戸惑った。


 あたしは悟った。

 あたしが心の中で求めていたものを。

 ティモシーであってティモシーではないものを、求めていたことを。

 あたしとティモシーの間にあったものは、幻だった。

 ティモシーは好きだけど、女の子じゃないなら付き合えない。それがあたしの価値観だった。

 それだけが残念だった。

 彼のせいではないのに残念に思ってしまう、自分こそが残念だった。


 彼が走り去った後、草むらには彼が外した帽子とスカーフが残された。あたしはそれを引き寄せ、胸に抱えて泣いた。夏草の湿っぽい臭いも、蜂の羽音も、頭上の枝葉が揺れる音さえうっとうしかった。青い空も、川面のきらめきも、この景色が完璧に美しい夏の日であることも、みんなみんな恨めしかった。

 あたしは側の草をむしって、川へ向かって放り投げた。ちぎれた草は頼りなくひらひらと漂うだけで、到底川にたどり着けもしなかった。小石を探った。川へ放った。何にもならなかった。もう少し大きい石を拾った。立ち上がって、思い切り投げつけた。とぷん、という音がして石は水中に沈んだ。

 あたしはしゃがみこんで、また泣きじゃくった。自分の泣き声が膝の中で木霊になって、しばらくの間耳に残った。


 あの夏の日、あの川べりにあたしは叶えようのない恋を沈めた。

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