29話 記憶



誰かが、何か言ってた気がする。

名前を呼ばれた気がする。

でも、よく聞こえなかった。

自分だけ水中に潜っている気分だ。

身体が思うように動かない。

足は水の抵抗で鈍足と化しているし、視界はボヤけて不鮮明。

音もくぐもって聞こえる。

おれはこのままどこへ向かうんだろう。

誰の意思で、この身体は動いているんだろう。

本当にこの身体は、おれの身体なのか—————




「言ってなかったと思うけどおれ、兄貴がいたんだよ。六つ離れた兄だ。ちょっと歳が離れてるからか、だいぶ甘やかされたなあ。兄弟喧嘩も記憶にないな。歳が離れてるってこと抜きにしても、まあ優しい兄だったと思うよ。人当たりも良かった。誰に対しても分け隔てなく接するタイプだ。なんとなく・・・そう、なんとなくだけど、お前と雰囲気が似てる。背丈も同じくらいかも。ただちょっと、神経質って言うのかな。小さいところを気にするタイプだった。そこはお前と真逆だな。掃除をしてても些細な汚れを落とすまで布巾で擦り続けてたし、枕が変わると寝つきが悪くなるし、他人に言われたことを石にでも刻んだようにずっと覚えてるんだ。我が兄のことながら、生きづらいだろうなと思ったもんだよ。でも記憶力はいいから、頭を使う勝負事では全く歯が立たなかった。神経衰弱とか無双してたな。そこもお前とは違うか。・・・それにしても神経衰弱って皮肉なネーミングだよな。もっと他に無かったのかよ。とにかく、子どもの頃はその神経質のせいで良い思いも悪い思いもしてただろう。それで良かったんだ、子どもはな。けど、大人になるとどっちかっていうと悪い面の方が強く出るらしい。おれにはよく分からないけど、社会人ってのはどうも世知辛いみたいだな。謂れのない誹謗中傷とか、理不尽な叱咤とか、どうしても馬の合わない上司とか、色んなものを我慢して生きていかなきゃダメなんだろ。鈍い奴だったらそんなの全部水に流して捨ててしまえばいいってなるんだけど、止せばいいのに兄貴は全部掬い上げて自分の心に刻もうとするんだ。そんなガラクタみたいなもの、宝物のように大事に抱え込むなって話だ。で、色々と抱え込んでいった結果、持ち切れなくなって全部こぼした。兄貴自身も潰れていった。早い話が精神疾患だな。見てられなかったよ。底なしに明るいキャラじゃなかったけど、それでも人に暗い姿や表情は見せなかった兄貴が、二言目には死にたい死にたいって頭を抱えててさ。兄貴が居る空間はまるでこの世の終わりってくらいどんよりとした空間になった。でも、一歩外に出てみるとこの世は終わるどころか何事もなかったかのように平常運転。終わったのは兄貴にとってのこの世だけで、世間はそんなことでいちいち揺れないんだな。ショックだったよ。家族みんなで励ましてた。プレッシャーを与えないようにさ。でも一向に良くならなかった。時間が解決してくれるものかと思ってたけど、程度によるらしい。兄貴の場合は重度のうつ病だった。敏感過ぎたんだよ。日がな一日ぼうっとする兄貴は、もう死んでるみたいに見えた。そんな日々が続くと思ってたら、今度は急に部屋から姿を消したんだ。家族みんな大慌てさ。当然だ。あんな状態のまま外に出たら何をしでかすか分かったもんじゃない。けど、とうとう兄貴は見つからなかった。数日経っても帰ってこなかった。捜索願は出したけど、日本での行方不明者はさほど珍しい話でもない。特に最近はこういう相談も多かったみたいで、まともに取り合ってもらえなかった。そうなったらもう、自力で探すしかないじゃないか。で、色々調べた末に辿り着いたのがこいつら変態集団の巣穴だよ。なんだかとんでもないこと企んでるこいつらに、兄貴は関わってるみたいなんだ。とくれば、これはもうこのゲームに参加する他ないだろう?説明する機会が無かったからずっと黙ってたけど、おれの事情はこんなところだ。なあ佑一郎。お前なら分かってくれるだろ?おれは別に狂ってなんかないよ。なんでか知らないけど、やっぱりお前には分かってもらいたいんだよな。」

「花田さん、聞こえてないんじゃないですかね。」

「・・・聞こえてるよ。きっと。」

歩きながら智広はここに至るまでの経緯、思いの丈を花田に吐いた。

花田に反応はない。

ただ、黙ってついてきているだけだった。

「あんたには理解できないだろ。世間じゃあこういうことはよくある話らしい。おれもタガが外れてるみたいだけど、あんたらはおれの比じゃないからな。」

「いいえ、よく分かります。」

「・・・あっそ。」




スーツ姿の女性に連れられ入った部屋には壁面一杯にモニターが埋め尽くされていた。

真ん中のモニターはパブリックビューイングにも使えそうなほど巨大である。

さしづめ監視室といったところか。

「今はもう使ってませんが、ゲーム中はそれぞれ参加者に一人観察者がついてました。その観察者が撮っている映像をここで確認できます。」

「無駄金投じてよくここまで労力かけられるよな。」

「私もそう思います。」

「じゃあなんでこんなことしてるんだ。」

「必要だからでしょうね。」

「だれに?」

「色んな人です。」

「・・・まあいいや、どうでも。それより早く教えてくれよ、兄貴のこと。」

「はい、今モニターに映します。」

女性はモニター前の操作盤に近づき、慣れた手付きで取り扱う。

しばらくすると真ん中の巨大モニターに映像が映し出された。

見覚えのある講堂に、見覚えのある画角。

智広が手に入れ、皆に披露した映像と同じだった。

これならおれも見たぞ、と言いかけたが智広は新たな事実に気付く。

「・・・この人、あんただったんだ。別人みたいに暗いから分からなかったよ。」

「よく言われます。」

説明会で前に出て話していた案内人の女性は、貼り付いたような笑顔でハキハキと発声していた。

目の前の女性とは人物像があまりにもかけ離れている。

が、よくみると紛れもなく同一人物だ。

「それがあんたの素?それでよくこんな元気な声出せるな。」

映像の女性は遊園地のアトラクションクルーにでもなれそうなハツラツさだった。

そこまで考えて、もう一つ気付く。

この映像には音声があるのか。

智広が手に入れた映像には音が入っていなかった。

聞いていればなにか分かるのか。

おれが気付けなかったなにかが。




ぞわぞわする。

おれは、気付いちゃいけない気がする。

でも、見なきゃいけない気もする。

あのときは咄嗟に顔を伏せちゃったけど、もう、いいのかもな。

智広のためにも、全部思い出しちゃうか。

・・・智広のため?

なんであんなやつのためとか、考えなきゃいけないんだ。

でも、そうすべきだって身体が反応している。

身動きが取れない。

映像に視線が釘付けだ。

・・・そうそう、報奨金。

結局大して使わなかったな。

こんなことになるなら、豪遊しとけばよかった。

でも、あいつに嫌われたくないし。

・・・質問紙、ね。

何書いたんだっけ?

まあ、大したプロフィールじゃないし、どうでもいいか。

・・・ゲームクリアした人間に、名誉なんて与えられるか?

生き残っても死んでも、気分は最悪だろ。

・・・誰か、前に出てきた。

あんまり覚えてない。

おれもこの場にいたはずなのに。

どうやら彼は見せしめらしい。

かわいそうに。

不幸にも、最初の犠牲者として選ばれてしまったんだな。

まだ若い・・・の・・・に・・。

・・・おれ、だ。

おれが、苦しんでる。

どうし—————「花田!!!!!!!」




樋口が映像を遮るように眼前に現れ、花田の意識は浮上した。

しかし呆気に取られるだけで、まだどこか朧げな表情だった。

こうしている間も映像と音声は絶え間なく流れ続けている。

樋口が両の手で花田の耳を覆い、頭をぐっと固定させて樋口自身が壁となりモニターの視聴を防いでいた。

しかし、樋口は違う。

モニターに背を向ける形となったが、音声は今この瞬間も聞こえてしまう。

耳を塞ぐための手も残っていない。

無防備な樋口の脳に直接、刺激が襲いかかる。

やがて樋口の顔が苦悶に満ちる。

目から、鼻から、口から、耳から、穴という穴から血が流れ出す。

それでも花田の耳を覆う手は、離さなかった。

流れ出す血液の量に比例して、押さえ込む手の力は増していく。

混乱する。

どうして、お前はこんな状況で人に気をかけられるんだ。

自分を差し置いて人助けするのは気持ち悪いって、言ってたじゃないか。

何を考えている?

やめてくれ。

おれなんかのために、死なないでくれ。

頼む。

頼む。

「樋口!!!!!!!」

はっきりと意識が覚醒した花田は、樋口の両手を掴み耳から引き剥がす。

だが、遅過ぎた。

苦悶に満ちていた表情はどこかへ消え、うっすらと微笑みかけているような顔で樋口は息絶えていた。

それに気付いた瞬間、花田は全身が脱力して膝から崩れ落ちる。

樋口はゆっくりと倒れ込む。

倒れた勢いでリュックに紐づけられていた巾着から、中身が飛び出してきた。

お守りだと言って持ってきていたのは、花田がプレゼントした箸置きだった。



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