25話 頼むから思い出させてくれ
公園内のジョギングコースを駆け抜ける。
気持ちよさそうに走る運動着姿のランナーを追い越し、粘っこく頬を伝う脂汗を拭いながら苦渋の面で逃げるように。
実際、風間は恐れ慄く逃亡者である。
逃げ出したくなる修羅場は何度かあったが、本当にその場を顧みず逃げ出したのは人生で初めての経験だった。
田岡の娘に何をされるのか分からないから怖いのではない。
ただそこにいるだけ。
その事実だけでもう耐えきれなかった。
散々ゲームの参加者を死に追いやってきた。
事実上、殺しているのは自分だがその感覚を風間は持ち合わせていなかった。
多少の精神的苦痛は覚悟していたが、案外こんなものかと呆気に取られていた。
しかし、真の重圧はこうやってのしかかってくるのか。
このゲームを通じて鈍く図太い男になったと思っていたが、風間光輝という人間の脳は外側が頑丈そうなだけで、中身は結局繊細な作りのままであった。
全力で距離を取ろうと走り続けた風間は、その限界がくるまで10分ほどかかった。
総合公園の敷地を出て、団地の端にポツンと存在する小さな遊具場に行き着いた。
団地に住んでいると思われる子どもが数人その遊具で遊んでおり、その近くに母親であろう人たちが井戸端会議をしている。
何気ない日常の光景に何となく胸を撫で下ろし、近くのベンチに座って息を整える。
思えば、田岡の娘も樋口も追いかける素振りを見せていなかった気がするので、ここまで必死に逃げる必要はなかったかもしれない。
それでも、大げさであろうと物理的に大きく距離を開けたかった。
「めちゃくちゃだ、もう・・・。」
ため息とセットでぼやく。
比喩ではなく、頭を抱えて悩み込んでしまう。
ちょっと前まで上手くことが運んでいたはずなのに、ちょっとしたきっかけ一つで進路をかき乱されてしまい、一寸先は闇と化した。
誰のせいだ?
田岡の娘、あいつがあの場に現れなければこんなに取り乱すことはなかった。
水木唯、ただのターゲットのくせに人を待たせて、とうとう姿を見せず終いか。
智広、あの男が情報漏らしたおかげで樋口に怯えるハメになった。
樋口京香、妙な手紙を出しやがってあの冷血女。
小寺法子、あいつがあの夜ヘマしてあの現場をおれに見つかるから・・・。
田岡重、お前はもうゲームからアガってるんだ、大人しくしてろクソ上司。
恨みつらみを言い出せばキリがなく、関わってきた人物全てが今の状況を作り出した原因に見えてくる。
頭を抱えていた手に力が入ると、額の古傷に触れて鋭い痛みが走る。
以前、ショッピングモールで自傷行為をしたときに出来た古傷だ。
今思うと我を失ってバカなことをしたと呆れるが、あのとき確かに記憶の蘇生を防ぐことができていた気がする。
痛みの実感で脳を上書きしていたのではないか。
また、いき詰まって思い出しそうになったら、もう一度同じ事をすれば同じように生き残れる———————
「さあ、もう帰るわよー!」
「続きはまた明日ね」
母親が子どもたちへ帰宅を促す声で我に帰る。
それとほぼ同時に17時のメロディチャイムが団地内に響き渡っていた。
夕焼け小焼けのBGMが、子どもたちの一日の終わりを告げる鐘のように哀愁を誘う。
『続きはまた明日ね』
さきほどの母親の言葉が頭の中をゆっくり巡る。
そうだ、もういい。
続きは明日考えよう。
・・・いや、考え込むのはだめか。
それもまあ、今はどうでもいい。
考えないために色々考えるのは、疲れた。
トボトボと団地から駅に向かう途中、あの総合公園を突っ切るのが近道だ。
普段の風間ならば大事をとって遠回りだろうとそのルートを避けるはずだが、今はもう何も考えず最短経路で駅に向かっていた。
先ほど走り抜けたジョギングコースを、今度はのんびりと歩く。
公園の施設は大体17時には閉まって、満足に使えるエリアが急激に減るためか人の数はだいぶまばらになっていた。
白い街灯もちらほら周囲を照らし始めている。
公園で過ごしていた人たちの一日ももうすぐ終わりだと、園内の雰囲気が告げていた。
風間たちゲームのアクティブプレーヤーは、一般人の一日が終わる頃に本格始動していた。
目立つのを避け、ターゲットを確実に葬るため機が熟すのを待ち、満を持して凶器を取り出し思い出させる。
非日常の如きそれが、最近の風間の日常であった。
張り続けていた気を緩めて一般人の時間軸に戻ると、とても穏やかな心を取り戻すことができた。
何者にも縛られない自由な感覚。
澄み切って、それでいて余計な雑念を抱かない頭。
理由はともかく、走ってほどよく疲れた身体。
気持ちのいい『一日の終わり』だ。
そう思えるほど風間の心は不自然に清らかだった。
だからか、風間は動揺しなかった。
この時間になってもなお、広場で待ち構えていた田岡の娘と対面しても。
「・・・さっきはどうも。」
「いえ、驚かせてすみませんでした。」
「こちらこそ、急に逃げちゃって。」
逃げ出した先刻が嘘のように、落ち着いた対話となった。
別に覚悟が決まったわけではなく、喋りで言い負かす自信があるわけでもなく、なにも考えていないだけだった。
広場には他に誰もいないが、目の端に木陰からこちらを覗く人影が映る。
男女二人、おそらく樋口と花田か。
それがわかったからといって、今はどうするという気概もない。
「で、何か用があったんでしょ?」
「はい、色々あるんですけど・・・あ、でも先に、これを。」
「・・・。」
田岡から差し出された手の中には一枚の小さな紙切れがある。
もちろん見覚えがある。
最初に参加者が握っていたであろうメッセージカードだ。
それを人から渡されるシチュエーションにも覚えがある。
小寺法子と最初に遭遇したときだ。
あのときは【忘れた記憶は】と書かれた紙を手渡された。
「・・・これは?」
「あなたの奥さんからです。」
「・・・は?」
風間に妻などいない。
生まれてこの方、独身を貫いていた。
おずおずと手を伸ばし、その紙を受け取って書かれた内容に目を通す。
【妻:風間美希】
美希の姓は早瀬のはず。
なぜおれの姓を横につけているのか———————
それによく見るとこの紙はメッセージカードではなかった。
なにかをコピーして雑に切り取ったその切れ端だ。
そしてこの字を書いたのは恐らく・・・。
「水木さんって人から聞いたの。光輝が記憶喪失になってるから、思い出させてあげてって。」
背後から声をかけられて振り向くと、美希の姿がそこにあった。
「ずっと様子変だったもんね。気付いてあげられなくてごめん・・・でも、結婚したことも忘れちゃってるとは思わなくて。あんなにはっきり避けられると・・・思わなくて。」
「結婚?・・・おれと、お前が?」
「・・・どうして?まだ思い出せないの?そんなに、光輝にとってどうでもいい記憶なの?そんなに邪魔?一緒に住んでるわけでもないのに、それでも鬱陶しいって思うの?」
美希の目に光が消え、虚になる。
似たような目を最近よく見かけていた。
人が死に至る直前、希望を失うときの目だ。
『やだよ、光輝。私、堕したくない!』
脳内をかけ巡る記憶のかけら。
『だってそしたら、光輝どっかいっちゃうでしょ!私の前からいなくなるでしょ!」
忘れたかった、忘れていた記憶。
『だったら、結婚して・・・。どこにもいなくならないって約束するなら、籍だけでも入れようよ・・・。』
一つ思い出すと、呼応するように連鎖して蘇る。
『それなら、言う通りにするから・・・。だから!』
さっきの紙切れは、風間が書いた自分の質問票だった。
プロフィール欄に設けられていた結婚の有無に丸をつけて、家内の名前を書いた。
たったそれだけ、その部分を切り抜いたただの紙切れ。
しかしその紙の効果が絶大なのは、風間自身がよく知っていた。
だれの思惑だろう。
だれの差金だろう。
だれの、だれの、だれの、だれの・・・。
いろんな人間が関わって、複雑に絡まって、考えがまとまらない。
今の状況は一体だれが思い描いたシチュエーションなのだろう。
だが、そんなことを考えてももう無駄かもしれない。
思い出すことを制御はできないし、それを食い止める術を考える気力もない。
ただただ、聞かなかったことにしたい。
なかったことにしたい。
昔見た本の主人公は、たしかこんなこと言って聞こえないフリをしていたっけ。
「ねえ、光輝・・・!」
「え、なんだって?」
「別居婚なんてするから、こんなことにもなるんだって・・・もう一緒に普通に住もうよ!」
「え、なんだって?」
「だから・・・お願いだから思い出してよ!私のこと、嫌いなの?」
「え、なんだって?」
「・・・ふざけてるの?」
「え、なんだって?」
「光輝!ちゃんと聞いてよ!」
「え、なんだって?」
「・・・。」
壊れたオーディオの如く、思考を停止させて風間は同じ言葉を繰り返す。
それでも記憶のピースは息つく間もなく穴を埋めていく。
手遅れだ。
ここまできたらもう、あとは死を待つだけか。
半ば諦めの境地で風間が考えるのは、一つだけ。
最後に思い出す記憶とはどんなものなのか。
このゲームのネタばらしを冥土の土産としてもらっていこう。
自分の脳内に集中していると、腹部に激痛が走る。
視線を下ろすと突き刺さっている包丁と、じんわり滲み出る血が見える。
視線を上げると美希の興奮した顔と、田岡が驚愕して両手で顔を隠す姿。
奥のほうから樋口と花田が駆け寄ってくる。
だれが何を考えているのか、今は手に取るようにわかる。
そんなことは今さらどうでもいいのに。
おれは思い出したいんだ。
最後の記憶を。
お前らは頭の中から出ていってくれ。
どうしてこうも、思い通りにならないんだ。
頭に詰まってるのは本当に自分の脳なのか———————
力無く風間は倒れる。
自分の血溜まりのなかに埋もれ、赤い視界から見えた風間の最期の光景は、ゆっくり近寄ってくる知らない男の姿だった。
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