10話 新天地でも益々のご活躍をお祈りいたします


「ねえパパ、どうして勉強なんてしなきゃいけないの?」

「それはね、優奈の将来にきっと役立つからだよ。」

「え〜。でも算数とか理科とか、パパ全然使わないんでしょ?優奈もべつにそんなん使わないと思うよ。だからいらない勉強もあるんじゃないの?」

「うーんそうだなあ、もしかしたらいらないものもあるかもしれないな。」

「でしょ!どうせ勉強するんだったらもっと楽しいこと勉強したいよ!」

「そうなんだけどなあ、いるかいらないかは大人にならないと分からないんだよ。どの勉強が役に立つか今は分からないから、いろんなことを幅広く学んで、将来優奈がこんなふうになりたい!って夢が出来たときに、その夢を叶えやすいようにいろんなことを知ってたほうがいいんだ。」

「でも優奈、興味ないこと全然覚えられないんだもん・・・。」

「大丈夫だよ。みんな一回や二回勉強したくらいじゃ覚えられないもんなんだ。だから何度も復習したり予習することが大事なんだよ。」

「でもすぐ忘れちゃうもん!クラスの男の子にもバカにされるもん・・・『田岡はいっつも忘れん坊』って。」

「知らないことや忘れることは悪いことじゃないよ。パパだって忘れん坊さ。でもね、勉強したり思い出すことに一生懸命になれないのは良くない。諦めちゃダメだよ。どんなに思い通りにならなくても、いっぱい考えるんだ。頭を使って悪くなることなんて、何一つないからね。」

「・・・よく分からない。」

「ああ、ごめんね。優奈にはまだ早かったかな。」




今朝、昔の夢を見た。

昔といってもほんの5、6年前だ。

娘の成長が早いため5、6年前の光景でもだいぶ時間が経ったように感じる。

背丈や容姿だけの話ではない。

最近は十分なコミュニケーションもとっていないので、仲睦まじく親子で会話をしていたのが本当に遠い過去の話に思えてしまう。

娘は今でも自分のことをパパと呼んでくれるだろうか。

もうずいぶんと長い間、娘から話しかけられていない気がする。

帰り際、優奈の好きなモンブランを買って帰ってやろう。

ちょっとは会話のきっかけになるかな。

・・・いや、ケーキの好みも変わってるかもな。

物思いに耽り感傷に浸っていた田岡だが、今向かっている先は人生の正念場とも言える戦地なのだという理解はあった。

風間から呼び出された人気のないビル群の一棟。

群れの足元に仁王立ちし、田岡は覚悟を決めてフッと息を吐き目的地に向けまた歩き出す。

どう説き伏せるか。

田岡の頭はその考えでいっぱいだった。

風間がどういう目的で自分を呼びつけたのか、それによってアクションは変わる。

数多くの叱咤に対する腹いせか。

金銭をせびろうというのか。

はたまた、本当に精神が崩壊してしまい狂気の沙汰に及ぼうというのか。

場合によっては実力行使もやむを得ない覚悟を持っていた。




手足の震えを精一杯抑えつつ、田岡はついに目的地へ辿り着く。

周りを見回すが照明が付いていないため正しく空間を把握できない。

広いカンファレンスルームだろうか。

不安になるが、しかし間違いなく風間が指定したビルの一角だった。

しばらくすると携帯電話のバイブレーションが着信を知らせる。

表示されたのは風間の携帯番号だった。

「・・・風間か。」

『お疲れ様です、田岡課長。ご足労いただきありがとうございます。』

「妙に社会人ぶるのはよせ。お前にその資格はない。」

『ほう、では田岡課長にはその資格があるのですか。』

「・・・何が言いたい。」

『言いたいことはたくさんございますよ。一言では申し上げられません。だから総括してお訊ねしております。田岡課長には社会人の資格はおありですか?部下を追い詰め、家族を騙し、自らを顧みない時代遅れの蛮勇は、果たして社会人なのですか。』

あくまで丁寧に問い詰めてくるその言い回しに忌々しさを覚えるが、その感情はいったんしまっておくことにした。

家族を騙し、と風間は言い放った。

それを聞き田岡は確信した。

風間は秘密を握っている。

「どうやって知った。」

『聞きたいことはそんなことですか?』

「・・・なにが目的なんだ。」

『いえね、ただ純粋に反省してほしいだけなんですよ私は。じゃないと、鈴本も相川も浮かばれない。』

鈴本は数ヶ月前にうつ病と診断され離職した田岡の部下だった。

相川も同じく田岡の部下だが、数日前に行方知らずとなっている。

「あの二人がああなったのは、おれの責任だと言いたいのか。」

『他になにかありますか。』

おれは悪くない。

そう高らかに宣言したいところだが、今は下手に刺激しないほうがいいだろう。

「なるほど、確かにそうだ。実際におれの管理下にいた二人が疲弊していく様を、おれは気付いてやることができなかった。管理職としての責任がおれにはある。しかし家族を騙したとは心外だな。むしろ騙されたのはおれだぞ?」

『・・・ではそう主張して警察に泣きつけば良いのではないでしょうか。美人局の発覚を恐れ、示談を受け入れたのは課長ご自身ですよね。もっとちゃんと考えて行動すればよかったものを。』

「独り身の人間には決して理解できない苦労があるんだよ。」

熱くなってつい憎まれ口をついてしまう。

風間にしっかりと自分の事情を把握されていることに動揺を隠せなかったのもあった。

今は冷静になれ、と自分を律するように頭を振る。

「あ、いや、違うな、おれの悪い癖だ。悪く思うな。しかしお前もあのバイトに参加していたとはな。そんなに金に困っていたのか。うちは目を見張るような高給じゃあないが、安月給と卑下するほどでもないだろ。」

『あんな会社に死ぬまで従事したいと思うやつなんて、若い世代にはいないでしょう。まとまったお金が必要になるんですよ。経済的に余裕があれば、すぐにでもバックれてやりたいと思ってましたよ。』

「相川もそうだったって言いたいのか?あいつも同じ理由で姿をくらましたって?」

『相川なら課長のすぐ隣にいるじゃないですか。』

は?

首を振って両隣を素早く確認し、目を凝らす。

相川が右隣の座席に座って力無くうなだれていた。

心臓が飛び跳ねるほどの驚きがあったが、暗がりでは大きく動くこともできず、少し後退りした程度の最小限の防衛行動となった。

本当は今すぐにでも逃げ出したいところだが、これ以上風間に弱みを見せたくないという謎の強がりが、田岡をその場に留まらせた。

「・・・おい、相川?いるならいるって声をかけろよ・・・。ほんと、お前はそういうところあるよな、変に気遣って大人しくして・・・存在感ってもんをもっと発揮しろとあれほど・・・。」

声をかけ続けて様子をうかがうが、ぴくりとも反応しない相川を不審に思う。

田岡は携帯電話のライトを付けて相川の顔を照らした。

寝ているのだろうか。

目を閉じ、綺麗な顔をして座席に座っていた。

不自然なほど綺麗な寝顔だった。

まるで誰かに、汚れを拭きとってもらった後かのように。

「相川には実験に付き合ってもらいました。」

肉声で部屋の正面から聞こえてくる声にまた心臓が跳ねる。

風間だった。

声が反響したことで気付いたが、この部屋は相当広い。

「実験?何を言っているんだ?」

「何をすればどれくらい思い出すのか、思い出させるのになにが効果的なのか、手探りですけどね。要領も得ないし。でもおかげでどう行動すべきかがなんとなくわかりましたよ。」

「?さっきからなんなんだ、もっと伝わるように喋れないのか!」

理解できない状況と話が続きイライラが語気に表れる。

今度は自分を律する余裕もない。

「案外鈍いんですね、課長。それとも気付かないフリですか?そうですよね、頭が働いちゃったら自分の首を絞めちゃいますもんね。」

「まだ続けるのか!いい加減にしろ!」

「おれも先日まで同じこと思ってたんですけどね、辞めました。弱気なこと考えているとどうしても考えすぎちゃうんですよ。だから、攻めっ気を出すことにしたんです。そしたら案外余計な記憶を思い出さなくて良くなりました。」

「うるさい!おい相川、起きろ!風間を黙らせろ!」

「死んでますよ、そいつ。」

あっけらかんと言う風間に得体の知れない恐怖を感じた。

違う、相手は風間だ。

屈服してはいけない、ただの人間、部下だった男だ。

恐怖を押し殺すために田岡は風間に掴み掛かり、押し倒して首を絞める。

「お前、お前っが、殺したのか・・・!」

制御ができず、絞める手に力が入る。

苦悶の表情を浮かべながらも、風間はどこか楽しげな笑みを見せていたからだ。

風間は持っていたリモコンでスイッチを入れた。

バツン、と音を立てて部屋の照明が全て点く。

風間を見下ろす形になっていた田岡も、思わず目を覆うほどの光量。

改めて周りを見回す。

広い講堂だった。

ざっと100人くらいは収容できるほどの。

この講堂の光景に田岡は見覚えがあった。

『全て思い出すことができたら晴れてゲームクリア!』

あのバイトだ、あのときの説明会だ。

『映えある名誉と大金はあなたの手に!』

思い出した、記憶だ。

記憶が蘇れば大金を手に入れられる。

示談の資金も補うことができるんだ。

『ただし、余計なことの思い出しすぎには注意しましょう!』

あ、そうだった。

きづいちゃいけないこともあるんだった。

田岡の身体は動きが止まり、代わりにぐるぐると脳が忙しくフル回転する。

「あ・・・あ・・・あ、あ、あ・・・。」

いつの間にか口や鼻から血が流れ出していた。

目に入る光景が、声の反響が、部屋の匂いが、血液から漂う鉄の異臭が、田岡の記憶を鮮烈に刺激する。

一つ思い出せば連鎖的に次々と記憶が蘇る。

それを止めるものはどこにもない。

こうして田岡は倒れ、身体だけでなく脳の動きも止まる。

「・・・ア、ア・・・。」

意識が薄らぎながら、最期に途切れ途切れで聞こえたのは風間の言葉だった。

「20年・・・たか?お勤め・・・・様で・・。課長には数々の・・激励をいただきまして・・・。今でも・・・ります。・・・でも益々の・・・をお祈り・・・。」

ほとんど聞き取れなかっただろうが、構いやしないだろう。

退職の挨拶メールなどさしてだれも熟読しない、それと同じだ。



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